「坊主頭しかない」「遊びに行く気力もなかった」中村亮土が振り返る「自衛隊」みたいに厳しかった鹿児島実業高ラグビー部時代 (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

── なぜ商材にプロテインを選んだのですか?

「やっぱり自分と関係性のあるものや、自分のなかで思い入れが強いものに関わりたいと思ったんです。思い入れのあることをいろいろノートに書き出してみて、マッチしたのが栄養関係だったので、最終的にプロテインを選びました。コーヒー味のプロテインですが、コーヒー豆にもこだわっています」

── やはり、サントリーというメーカーで働いていたことはプラスになったのでしょうか?

「サントリーでは業務店に対する営業を7年くらいしていましたので、それはプラスになりましたね。ただ、イチから起業すると学ぶこともたくさんありました。スポーツ選手が安心して口にできるプロテインを製造するため、アンチドーピング認証である『インフォームドチョイス』を取得したり、費用もかかるので、ゼロから作り上げることはめちゃめちゃ大変でした」

── プロラグビー選手になるまでの話を聞かせてください。中村選手はサッカーの強豪校でもある鹿児島実業高校出身ですが、知り合いでプロサッカー選手は?

「いないですね。サッカー部の同期は高校選手権には出ていなかったですし、Jリーガーとの絡みはないです」

── ラグビー部の練習は厳しかったですか?

「今は違うようですが、当時は自衛隊みたいに上下関係がすごく厳しい高校でした。だから、実家から通っていましたが、休日に遊んだ記憶もほとんどなく......。高校生らしい青春を過ごした感じはなかったですね。

 練習内容はあまり覚えていないですが、とにかく練習が長かった。月曜日だけはオフでしたが、それでも授業が終わったあとなので、時間が空くのは16時以降。何もできないじゃないですか。そもそも日々の練習で疲れすぎていて、遊びに行く気力もなかった(笑)」

── 当時のラグビー部はかなり厳しい校風だったのですね。

「上下関係が本当に厳しくて、少しでも作法が乱れれば、すぐに指導を受けました。たとえば、短めのヘアスタイルでも髪が耳にかかると即アウト。かといってツーブロックもダメ。結局、坊主頭しかない(笑)。だから、僕の生徒手帳の写真も卒業文集の写真も坊主頭。そういう時代でした」

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