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円盤投げで優勝、高校卒業後に単身NZ、20歳でプロ契約...異色のラガーマン・メイン平はワールドカップをあきらめない (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

── ニュージーランドでプロ選手になるのは難しかった?

「はい。まずは生活するために、向こうではいろんな仕事をしてきました。グラウンドの管理や、クラブのスポンサーさんの会社に勤めて事務もやりました。もちろんご飯も自炊ですが、それをする時間もほとんどなかった。

(現地クラブの)アカデミーにも入っていたので、とてもハードなスケジュールだったんです。朝の5時から6時半まで朝練をやって、7時から仕事に行って、午後3時まで8時間労働。午後からもクラブチームの練習があるので、食事を摂る時間すらあまりなかったです。

 自宅に戻ってからも時間が全然なくて、結果的に体作りもできなくて痩せちゃいました(笑)。でも、自分で生活する能力は身につきましたので、いい経験になりました」

── ニュージーランドでの挑戦を振り返って、今はどう思いますか?

「後悔はないです。めちゃくちゃ今につながっていると思います。あの時期にしかできないことも絶対にあったと思うので、それができたのはよかったかな」

── 帰国後、リコーブラックラムズ東京でプレーすることになった経緯は?

「ニュージーランド挑戦2年目の途中に、ブラックラムズに入ることが決まっている大学4年生がハリケーンズに練習生としてやってくることになりました。そのブラックラムズでゼネラルマネージャーを務めているのが、西辻勤さんでした。

 西辻さんは僕の高校の先輩で、恩師の竹田寛行監督が西辻さんに『ニュージーランドに御所実業出身の選手がいる』と伝えてくれたんです。それがきっかけで、通訳として僕に声がかかりました。ただ、合流寸前にコロナ禍となって、通訳として参加できなくなりましたが......。

 すると、西辻さんが『ブラックラムズの練習生として参加しない?』と誘ってくれたんです。U20日本代表候補の合宿で日本に戻った時に練習に参加させてもらい、一度ニュージーランドに戻ったあとも『秋から練習が始まるから、その時にまたおいで』と。それが縁となって、契約に至りました。小さい頃からプロラグビー選手になりたかったので、うれしかったですね!」

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