【部活やろうぜ!】『「工業さ、来い」と言われて』田臥勇太(宇都宮ブレックス)が語る能代工業高校への進学と下宿生活 (2ページ目)
【下宿生活と仲間、そして「バスケ」の街】
能代工の部員の多くは下宿生活を送っていた。田臥が暮らしていた下宿では、全学年でおよそ15人ほどの部員が共同生活を送っていたという。
「自分がお世話になった下宿は6〜8畳のひとり部屋でした。門限はありましたけど、下宿にいる間は自由で、誰かの部屋に集まって、四六時中一緒にいた感じです」
日本を代表する強豪高校の練習は当然ながら厳しかった。新入生にとって、特にボールを使用した練習前に行なう伝統のフットワーク練習は、体力を消耗させるものだった。
「基本的にはずっと走っている感じでした。入学してからしばらくは体力面で練習についていくのがやっとで、夏のインターハイまでは本当に大変でした」
練習の質は厳しさを極めたが、一方で練習時間自体は決して長くなかった。朝練は自主練習で、放課後は長くても3時間ほど。そのなかで集中して取り組むスタイルだった。
「『短時間集中』という感じでした。加藤(三彦)先生は、やるときはやる、休むときは休むというメリハリをすごく大事にしていました」
厳しい練習のあと、下宿に戻る時間が部員たちにとっての大切な時間だった。
「一番大きかったのは、常に仲間と一緒にいられたことです。練習でつらいときや怒られたりしたとき、それが僕じゃなくほかのメンバーであっても、下宿に戻ればみんなと一緒にいた。それで愚痴を言い合ったり、つらいこと、楽しいことも共有できたことが何よりの励みになっていました」
1年生の時は、先輩からの頼まれ事をこなすなど、コート外の役割も多かった。お菓子の買い出しやカップ麺の調理、さらにはこんな"仕事"もあった。
当時は携帯電話がまだ普及しておらず、ポケベルが主流。「大切な人に『ポケベルを打ってきて』というのもありました」と振り返る。
「下宿前の電話ボックスまで足を運び、託されたメッセージを打っていましたね。だから、打つのは早くなりましたよ」
だが、何より能代は住み心地のいい街だった。田臥が入学した時点ですでに41回の主要全国大会制覇を果たした事実は、街中の人が能代工のバスケ部を応援し、部員を人間として育てる土壌によるところが大きかったと振り返る。
大会に勝ったあとにチームメートと定食屋に行けば、おかずをサービスしてもらった。一方で、信号無視などのルール違反があれば、すぐに学校へ連絡が入る。街全体でチームを見守り、育てていた。
「バスケの街」での暮らしと下宿での時間。そうした日常の積み重ねが、やがて全国無敗の「9冠」という前人未到の偉業へとつながっていく。
後編〉〉〉能代工業高校「必勝不敗」9冠を導き出した「細部への徹底」の日々
●Profile
田臥勇太(たぶせ・ゆうた)
1980年10月5日生まれ、神奈川県出身。小2からバスケットボールを始め、大道中(神奈川)では3年時に全国中学校大会3位。1996年4月に能代工業高(秋田)入学以降、先発ガードとして活躍し、卒業するまで、インターハイ、国体、ウインターカップの主要全国大会負けなしの9冠を達成する原動力となった。2004年、フェニックス・サンズと契約し、日本人初のNBAプレーヤーに。2008年から現在まで宇都宮ブレックスに所属している。
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著者プロフィール
牧野 豊 (まきの・ゆたか)
1970年、東京・神田生まれ。上智大卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。複数の専門誌に携わった後、「Jr.バスケットボール・マガジン」「スイミング・マガジン」「陸上競技マガジン」等5誌の編集長を歴任。NFLスーパーボウル、NBAファイナル、アジア大会、各競技の世界選手権のほか、2012年ロンドン、21年東京と夏季五輪2大会を現地取材。22年9月に退社し、現在はフリーランスのスポーツ専門編集者&ライターとして活動中。
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