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NBA伝説の名選手:レジー・ミラー プレーオフ史に生き続ける衝撃の「ミラータイム」の記憶 (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【アンチも含めて多くのファンの記憶に】

 翌シーズンからはヘッドコーチがラリー・バード(元ボストン・セルティックスの伝説的選手)に代わり、ミラーとペイサーズの王座への挑戦は続いた。

 1998年はマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの3連覇を阻止しようと奮闘し、1勝2敗で迎えた第4戦では残り2.7秒に逆転勝利に導く3Pを決めるなど、第7戦までもつれる激戦の原動力になった。

 2000年のプレーオフでは、カンファレンス決勝で宿敵ニックスを4勝2敗で撃破し、ミラーはキャリア13年目でようやくNBAファイナルの舞台に立った。迎えたオニールとコービー・ブライアントを擁するロサンゼルス・レイカーズとの頂上決戦では6試合中4試合で25得点以上をマークするなど奮闘。しかし、チャンピオンシップ獲得という悲願を実現できなかった。

 第6戦の第4Qに4得点しか奪えずに終わったミラーは、ペイサーズを勝利に導けなかった悔しさを、こう表現した。

「我々は試合をボクシングのヘビー級の戦いのように想定していた。各クォーターに勝ち、それらをラウンドとして数えたかった。最初の3ラウンドで勝ったけど、最も重要なラウンドで負けたんだ。それが第4ラウンド(4Q)だ」

 年齢が30代後半に突入したミラーにとって、2004年のプレーオフはタイトル獲得のラストチャンスだった。ジャーメイン・オニール、ロン・アーテスト、アル・ハリントンといった20代中盤の選手の飛躍もあり、ペイサーズは61勝21敗でイーストの第1シードでプレーオフ出場権を獲得。セルティックスとマイアミ・ヒートを倒してカンファレンス決勝に進出したが、ホームでの第2、5戦を落としてデトロイト・ピストンズに2勝4敗で敗れ、2度目のファイナル進出に至らなかった。

 翌シーズンは2004年11月19日のピストンズ戦で起きた大乱闘の影響で、アーテストのシーズン全試合を含む主力が長期出場停止処分を科されてしまう。ペイサーズはなんとか盛り返し、プレーオフではカンファレンス準決勝まで勝ち上がるも、再びピストンズの前に敗退。2005年5月19日、27得点と奮闘した第6戦が、ミラーにとって現役最後の試合になった。

 チャンピオンリングをはめることはできなかったが、アンチも含めて多くのファンの記憶に残る選手だったことは間違いない。

 ミラーがつけていた背番号31は、ペイサーズとUCLAの両チームで永久欠番となった。1996年のアトランタ五輪ではアメリカ代表として金メダルを獲得し、2012年にバスケットボールの殿堂入りと、シェリル同様の功績を残した。現役引退後は、ケーブルTV局『TNT』の解説者として、現在も活躍している。

【Profile】レジー・ミラー(Reggie Miller)/1965年8月24日生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1987年NBAドラフト1巡目11位指名。
●NBA所属歴:インディアナ・ペイサーズ(1987-88〜2004-05)
●NBAファイナル進出1回(2000)
●主なスタッツリーダー:フリースロー成功率5回(1991、1999、2001、2002、2005)
●五輪代表歴:1996年アトランタ大会(優勝)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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