NBA伝説の名選手:アキーム・オラジュワン 多彩な動きでライバルを凌駕したナイジェリア出身の「The Dream」 (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【盟友ドレクスラー加入で2連覇】

 追われる立場となった1994−95シーズン、ロケッツは2月下旬から5連敗を喫するなど、苦しい戦いを強いられていたが、大学時代の盟友、ドレクスラーがシーズン途中の2月にトレードでやって来たことが大きな転機となる。下位の第6シードになったロケッツだが、プレーオフに入るとドレクスラーがチームにフィットし始め、徐々にタフな王者としての強さを発揮し始める。

 カンファレンス準決勝で1勝3敗からの3連勝でフェニックス・サンズを撃破すると、カンファレンス決勝のサンアントニオ・スパーズ戦では、オラジュワンは、レギュラーシーズンMVPに選ばれたデイビッド・ロビンソンとのマッチアップで40点以上を3度記録するなど圧倒したのが決め手となり、4勝2敗でシリーズを制した。

 NBAファイナルの相手は、ネクスト・ブルズの呼び声の高かったオーランド・マジック。圧倒的な存在感を誇っていたセンターのシャキール・オニール、長身ガードのアンファニー・ハーダウェイを中心とするマジックを前に、ロケッツの下馬評は低かった。しかし、オラジュワンは前年のユーイング以上にフィジカルの強さが圧倒的だったオニールとのマッチアップで、多彩なスキルとフットワークで翻弄。平均32.8点、11.5リバウンド、5.5アシストを記録し、誰もが予想だにしなかったスイープ(4連勝)でロケッツを2連覇に導いた。再びNBAファイナルのMVPに輝いたあと、「多くの困難に直面したが、自分自身とお互いを信じていた」と語ったオラジュワンは、NBAの歴史における偉大な選手のひとりであるという立場を確固たるものにした。

 1993年にアメリカ国籍を取得したオラジュワンは、ドリームチーム2の一員として1996年アトランタ五輪で金メダルを獲得。1997年のオールスター・ウィークエンドでは、NBAの歴史に残る偉大な選手50人に名を連ねた。

 38歳となった2001年夏、オラジュワンは17シーズン過ごしたロケッツからトロント・ラプターズに移籍。しかし、往年のような支配力はなく、2002年のプレーオフ1回戦でデトロイト・ピストンズに敗れた後、現役生活に終止符を打った。

 引退後、コービー・ブライアントやレブロン・ジェームスがポストプレーを教わるためにヒューストンを訪問していたことは、オラジュワンが偉大なセンターとして尊敬されていたことの証と言える。

【Profile】アキーム・オラジュワン(Hakeem Olajuwon)/1963年1月21日、ナイジェリア・ラゴス生まれ。ヒューストン大出身。1984年NBAドラフト1巡目1位指名。
●NBA所属歴:ヒューストン・ロケッツ(1984-85〜2000-01)―トロント・ラプターズ(2001-02)
●NBA王座:2回(1994、95)/シーズンMVP1回(1994)/ファイナルMVP2回(1994、95)/最優秀守備選手賞2回(1993、94)/オールNBAファーストチーム6回(1987〜89、93、94、97)/
●主なスタッツリーダー:リバウンド王2回(1989、90)/ブロックショット王3回(1990、91、93)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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