NBA伝説の名選手:アキーム・オラジュワン 多彩な動きでライバルを凌駕したナイジェリア出身の「The Dream」 (2ページ目)
【NBA王座までの紆余曲折の歩み】
1984年のNBAドラフトにアーリーエントリーすると、オラジュワンは、マイケル・ジョーダンより先に1巡目1位でロケッツに指名された。ラルフ・サンプソン(224cm)とツインタワーを構成したオラジュワンは、1試合平均20.6点、11.9リバウンド、2.68ブロックショットの数字を残し、ロケッツが前のシーズンから19勝も勝ち星を増やす(29勝53敗から48勝34敗)要因となる。
2年目の1985-86シーズンには王者だったロサンゼルス・レイカーズをウェスタン・カンファレンスで倒すのに大きく貢献。NBAファイナルはボストン・セルティックスに敗れて頂点に立てなかったが、攻防両面でインサイドを支配するビッグセンターとして認知された。ひざの故障に悩まされるようになったサンプソンが1987年12月12日にゴールデンステイト・ウォリアーズにトレードされると、オラジュワンはロケッツを牽引する大黒柱としてのキャリアを歩み始める。
1988年から4年連続のプレーオフ1回戦敗退、1991−92シーズンはプレーオフに進めないという苦難を味わうなど、ロケッツが成果を出すまで時間がかかった。不満を持ち始めたオラジュワンはオーナーとの関係も悪化し、トレードを要求する事態に発展する。
「私は正当に評価されていないと感じていた。この組織に全身全霊を捧げてきたから、彼らがそれに応じて私を評価していることを示すのを期待していた」と語ったオラジュワンに対し、ロケッツはルディ・トムジャノビッチをヘッドコーチに就任させ、1993年にレスリー・アレクサンダーが新しいオーナーになってから関係が修復。1993年のカンファレンス準決勝でシアトル・スーパーソニックスに3勝4敗で負けたが、オラジュワンはこのシリーズで平均23.1点、13.1リバウンド、4.7アシスト、4.3ブロックショットを記録していた。
シカゴ・ブルズを3連覇に導いたマイケル・ジョーダンがメジャーリーグ挑戦を理由に引退を発表したあとに迎えた1993-94シーズン、オラジュワンのキャリアは頂点に達した。カンファレンス準決勝のフェニックス・サンズ戦はホームでの2連敗から巻き返し、カンファレンス決勝でユタ・ジャズを4勝1敗で撃破。自身2度目のNBAファイナル進出を果たす。
NBAファイナルの相手はニューヨーク・ニックス。大学のラストゲームとなったNCAA決勝で負けたパトリック・ユーイング相手に、オラジュワンは7試合中6試合で25点以上を奪った。2勝3敗で迎えた第6戦で30点、第7戦でも25点、10リバウンド、7アシストという大活躍によって、ロケッツを初のNBAタイトルに導いたのである。
「チャンピオンシップを勝ち取ることは夢の実現です。これまでの努力、犠牲、すべてが今、報われた。私はただアグレッシブに、自分のプレーをしたかった。チームメイトは私を信頼してくれたし、彼らのために結果を出したかった」
こう語ったオラジュワンは、1試合平均26.9点、9.1リバウンド、3.6アシスト、3.9ブロックショットを記録して文句なしでファイナルMVPに選出。ユーイングも平均18.9点、12.4リバウンドと奮闘したが、多彩なステップから相手を翻弄するオラジュワンの圧倒的なパフォーマンスは、シリーズに大きな違いをもたらした。
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