NBA伝説の名選手:マジック・ジョンソン「既成概念を破るプレースタイルでNBAを世界規模のリーグに押し上げた長身PG」 (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【突如の引退とスポーツビジネスでの成功】

 ジョンソンとバードがNBAの頂点を争うのは、1987年が最後になった。

 1988年6月、ジョンソンはセルティックスを倒したデトロイト・ピストンズとのファイナルを2勝3敗から逆転し、マジック自身初のNBA2連覇を成し遂げる。しかし、翌89年のファイナルではジョンソン自身が第2戦の途中で太腿部を痛めたことが痛手となり、レイカーズはピストンズに4連敗。3連覇を阻止されたあと、長年チームを牽引したアブドゥル=ジャバーが現役を引退したことで、『ショータイム』の時代に、終止符が打たれた。

 ジョンソンは1991年にレイカーズを再びファイナル進出へ導くなど、30代に突入しても質の高いプレーし続けていた。しかし、1991年11月7日、シーズン開幕を前に出たニュースが世界中を驚愕させることになる。それは、ジョンソンがHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の陽性であることを公表し、現役引退を決断したことだ。

 世界中が悲しむ事態に直面しても、ジョンソンはHIVに対する啓蒙活動を続けることで、多くの人たちに希望を与えた。引退した選手ながら1992年のオールスターにファン投票で選出されると、特別に出場した試合では25得点、9アシストを記録し、MVPに輝いたのである。

「試合中に負傷したら感染の危険がある」と主張してジョンソンの出場に反対する選手もいたが、NBAは出血した場合はすぐに試合を中断し、止血と傷が適切に処置されるまでプレーできない、血液がついたコートをすぐに消毒するといった規定を導入。ドリームチームの一員としてバルセロナ五輪に出場できたのは、医学的な見地から設けられたこの規定によるところが大きかった。NBAはマイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズの時代に移行し始めていたが、ジョンソンがバードと一緒にプレーして金メダルを獲得したことは、バスケットボールの魅力を世界中に知らしめたという点でも大きな意味があった。

「バルセロナでドリームチームとしてプレーすることで、バスケットボールの試合がいかにすばらしいものかを世界に示せた。我々がこのスポーツに新たなレベルの興奮と情熱をもたらした」(ジョンソン)

 1995-96シーズンに一時的に現役に復帰したあと、再びコートから退いたジョンソンは、ビジネスマンとしてすばらしい成果を出している。アフリカ系アメリカ人コミュニティに焦点を当て、映画館、スターバックスとの共同出資によるチェーン店の展開、不動産投資などで成功を手にした。現在はマジック・ジョンソン・エンタープライズ社の会長兼最高経営責任者を務めており、大谷翔平が所属するMLBのロサンゼルス・ドジャースの共同オーナーでもある。

【Profile】アービン"マジック"・ジョンソン(Ervin "Magic" Johnson)/1959年8月14日、アメリカ・ミシガン州生まれ。ミシガン・ステイト大出身。1979年NBAドラフト1巡目1位指名。
●NBA所属歴:ロサンゼルス・レイカーズ(1979-80〜90-91、95-96)
●NBA王座:5回(1980、82、85、87、88)/シーズンMVP(1987、89、90)、/ファイナルMVP(1980、82、87)/オールNBAファーストチーム9回(1983〜91)/オールスターMVP(1990、92)
●主なスタッツリーダー:アシスト王4回(1983、84、86、87)、スティール王2回(1981、82)
●アメリカ代表歴:1992年バルセロナ五輪(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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