NBA伝説の名選手:マジック・ジョンソン「既成概念を破るプレースタイルでNBAを世界規模のリーグに押し上げた長身PG」 (2ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【宿敵・バードと対決でNBAを隆盛に】

高さ、スピード、創造性すべてを備えていたマジック・ジョンソン photo by Icon Sportswire/Getty Images高さ、スピード、創造性すべてを備えていたマジック・ジョンソン photo by Icon Sportswire/Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 巧みなボールハンドリングや相手を欺くノールックパス、速攻からの得点を次々と生み出すジョンソンの存在を理由に、80年代のレイカーズは『ショータイム』と呼ばれた。『ショータイム・レイカーズ』は、バードを擁する東のボストン・セルティックスと頂点を争うライバルとして、NBAの発展に大きく貢献することとなる。

 もっとも当時、レイカーズは1959年を皮切りに8回、NBAファイナルでセルティックスに敗れていた。

「セルティックスとの対戦はいつでも厳しいものだ。彼らはすばらしい選手たちとすばらしいチームワークを持っていたから、常に最高レベルのプレーをしなければならなかった」

 こう話すジョンソンだが、1984年のファイナルは、バスケットボール人生のなかで最も悔しい思いをしたシリーズになる。宿敵・バード率いるセルティックスと初めてファイナルで対戦した時のことだ。

「セルティックスとの対戦はいつでも厳しいものだ。彼らは素晴らしい選手たちと素晴らしいチームワークを持っていたから、常に最高レベルのプレーをしなければならなかった」(ジョンソン)

 もっとも当時、レイカーズは1959年を皮切りに8回、NBAファイナルでセルティックスに敗れていた。

 そして1984年のファイナルは、ジョンソンにとって、バスケットボール人生のなかで最も悔しい思いをしたシリーズになる。宿敵・バード率いるセルティックスと初めてファイナルで対戦した時のことだ。

 2勝1敗とリードして迎えたホームでの第4戦、第4クォーター終盤にターンオーバーを喫し、決まれば優勝に王手というラストショットを決められずに延長戦の末に敗戦。その後、敵地での第5、7戦に負けたことで、ジョンソンとレイカーズはセルティックスという壁を乗り越えられなかったのである。

 ジョンソンはファンやメディアからの批判に直面したが、オフになるとこの敗北の借りを返すため、フリースロー、判断力、ゲーム・マネジメントのレベルアップに力を入れた。

 その成果は、1985年のファイナルに表われた。2年連続の対戦となったセルティックスを4勝2敗で倒して、前年のリベンジを果たし、ジョンソンにとって3度目の頂点に。ファイナルでのスタッツは平均18.3点、14アシスト、6.8リバウンド。MVPにはアブドゥル=ジャバーが選ばれたものの、ジョンソンの存在はレイカーズにとって大きな価値と影響力があることを明確にした。

 3度セルティックスとの対戦となった1987年のファイナル、ボストン・ガーデンで行なわれた第4戦は、ジョンソンが勝負強さを備えた真のスーパースターであることを証明する試合だった。残り13秒でバードに逆転3Pショットを決められ、1点を追う展開になったレイカーズだが、ジョンソンはタイムアウト後、左ウイングからのドライブでペイント内に侵入。セルティックスのケビン・マクヘイルとロバート・パリッシュの上からアブドゥル=ジャバーを彷彿させるスカイフックを見事に決め、レイカーズを勝利に導いた。

「信じられない。何と言っていいかわからない」とバードに言わせたこのショットは、レイカーズが宿敵を4勝2敗で退け、ジョンソンにとって4度目のNBA制覇を果たすファイナルを象徴するビッグプレーだった。

「ラリー・バードと私は、NBAを真にグローバルなスポーツに変えることに貢献した。我々の戦いは壮大であるからこそ、ふたりのベストを引き出すことになった。NBAが今日のような存在になったのは、レイカーズとセルティックスの戦いがあったからだ」

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る