【ワールドカップ】アルゼンチンが「世界の嫌われ者」になっていった歴史 メッシの存在がその風潮を変えた (3ページ目)
【嫌アルゼンチン感情の定着】
しかし、"アルゼンチン嫌い"の感情は「1990年のイタリア」という特殊な状況のせいばかりではなかった。アルゼンチンは、いつでも不人気だった。
アルゼンチンサッカーの黄金期は1940年代で、当時のアルゼンチンの攻撃力に対抗するためにブラジルはDF4人を並べる4-2-4システムを発明したとも言われている。
だが、残念ながら1940年代は第2次世界大戦のためにW杯は開かれなかった。1950年代に入ってW杯が再開されたが、アルゼンチンは経済的に苦しい時期を迎えており、代表チームの戦力も落ちて欧州勢に勝つことができなかった。
そこで、欧州に勝つためにアルゼンチンはより守備的、体力的で、時に暴力的なサッカーを選択した。
1966年W杯の準々決勝でアルゼンチンは開催国イングランドと対戦した。ウェンブリーでのアウェーである。そして、キャプテンのアントニオ・ラティン(今年の7月11日に死去)はレフェリーのルドルフ・クライトライン(西ドイツ)に退場を命じられたものの判定を拒否。ふたりの警察官に抱えられてピッチを後にすることになる。
ラティンは英語を理解できず、クライトライン主審はスペイン語を話せなかったのが原因とも言われるが、アルゼンチンに対するイメージは大きく損なわれた。
その後、1960年代には欧州チャンピオンズカップ勝者とコパ・リベルタドーレス勝者の間で争われたインターコンチネンタル杯でアルゼンチンのクラブが欧州クラブと何度も乱闘騒ぎを起こし、欧州では嫌アルゼンチン感情が定着していった(結局、インターコンチネンタル杯は開催不能となり、中立地である東京でトヨタカップが行なわれることになった)。
1978年のW杯はアルゼンチンで開催され、この時はインテリジェンスを重視するセサール・ルイス・メノッティ監督が攻撃的なすばらしいチームを作って、アルゼンチンは初優勝を果たした。
しかし、当時のアルゼンチンは軍事独裁政権によって多くの一般市民が拘束され、殺害されるという状況下にあり、欧州各国ではボイコット論も高まっていた。
この大会の2次リーグ最終戦でアルゼンチンは6ゴールを奪ってペルーに大勝し、得失点差でブラジルを上回って決勝進出を遂げたのだが、アルゼンチンの軍事政権がペルー政府に対して圧力を加えたのではないかとの噂が駆け巡った。
こうして、せっかく開催国優勝を遂げたにも関わらず、アルゼンチンに対するイメージが回復することはなかったのだ。
1980年代のアルゼンチンには「神の子」と呼ばれたマラドーナがいた。
だが、マラドーナは常に「反逆児」として振る舞ったため、アルゼンチン国外では反感を持つ人も多かった。優勝した1986年のメキシコW杯では"5人抜き"など天才的な才能を見せつけたが、同時に"神の手ゴール"はフェアプレーを重視するイングランドでは忌み嫌われることとなった。
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