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ジャンフランコ・ゾラのFKは誰も止められなかった 「25メートル前後だったらPKよりも簡単」 (2ページ目)

  • 粕谷秀樹●取材・文 text by Kasuya Hideki

【一緒にプレーしてくれないか】

 コロンビア代表の快足FWファウスティーノ・アスプリージャとの連係は創造性に富み、ゾラは33試合18ゴールをマーク。翌1994-95シーズンは32試合19ゴールを記録し、チームを3位に導いている。

 1995-96シーズンはフリスト・ストイチコフとの連係が整わず29試合10ゴール。それでもゾラは一定の評価を受けた。
 
 しかし、翌シーズンの監督人事によってキャリアが一変する。ネヴィオ・スカラのあとを継いだカルロ・アンチェロッティ(現レアル・マドリード監督)は、いわゆる「ファンタジスタ」を必要としていなかった。

 トップ下で自由に振る舞っていたゾラをアンカーに起用し、守備的なタスクも科したのである。

 チームの駒だとわかっていても、トップ下とアンカーでは勝手が違う。ゾラは得意とするポジションに戻してくれないかと直訴した。アンチェロッティは聞く耳を持たなかった。ふたりの関係に軋轢が生じる。

 そして1996年11月、ゾラはパルマを去った。

 思うところはあったはずだが、アンチェロッティを批判したりはしない。ハードワーカーが重視される風潮が広がり、高度なテクニックと自由奔放なアイデアを持ち味とする選手が隅に追いやられ始めていた。ロベルト・バッジョでさえ存在感が希薄になる、切ない時代がやって来た。

 ゾラも三十路を迎え、キャリアの晩年に差しかかっていた。その時、ロンドンからよもやのオファーが舞い込んだのである。

「一緒にプレーしてくれないか」

 誘いの主は、ルート・フリットだった。当時、チェルシーのプレーイングマネジャーを務めていた彼は「セクシーフットボール」を掲げ、その中心にゾラを据えようとしていた。

 ジャンルカ・ヴィアッリやロベルト・ディ・マテオなど、イタリア人が所属していたことも幸いだった。フリットもACミランで一世を風靡している。当時のチェルシーはゾラを受け入れる環境が整っていた、といって差し支えない。

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