ジャンフランコ・ゾラのFKは誰も止められなかった 「25メートル前後だったらPKよりも簡単」
世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第2回】ジャンフランコ・ゾラ(イタリア)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、ワールドサッカーダイジェスト初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。
好評だった第1回のエリック・カントナに続き、第2回に選んだのはジャンフランコ・ゾラ。イタリアが生んだ「サルデーニャの魔法使い」は、唯一無二のプレーで我々を魅了した。
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ジャンフランコ・ゾラ/1966年7月5日、イタリア・サルディーニャ生まれ photo by AFLO 右足から放たれるFKは、彼の意志を乗せ、ゴールに吸い込まれていった。他人を批判せず、ねたみ・そねみは口にしない。
ジャンフランコ・ゾラである。
決して華々しいプロデビューではなかった。地元のサルデーニャ島では早くから天才的な技術が注目されていたが、ビッグクラブから声はかからなかった。19歳になっても、20歳になっても、弱小クラブでプレーする毎日......。心が折れかねない状況だ。
しかし、ゾラが23歳になった1989年、セリエAのナポリからオファーが舞い込んだ。担当者は、のちにユベントスの辣腕ゼネラルマネジャーとなり、カルチョボリ(八百長事件)の首謀者として世間を騒がせた、あのルチアーノ・モッジである。
殺し文句は「ディエゴ・マラドーナと一緒にプレーしないか」。
断る理由など、あるはずがない。1980年代後半のマラドーナは絶対的な存在であり、「現人神(あらひとがみ)」と崇めるナポリ市民まで現れるほどだ。
試合で、トレーニングで、マラドーナの一挙手一投足に熱い視線を送っていたゾラは、瞬く間に成長していった。
特にセットプレーである。立ち足の角度、ボールとの距離など、ナポリの現人神は、常に工夫を凝らしていたという。
「ディエゴはレフティ、私はオーソドックス......利き足こそ違うけれど、セットプレーの奥深さを思い知らされたよ」
1995年、契約スポンサーの招きで来日した際、筆者の質問に答えるゾラの瞳が少年のようにキラキラと輝いていたことを、今でも鮮明に覚えている。
マラドーナに近づけた選手はいない。だが、ゾラのボールコントロール、肩の動きと視線を織り交ぜたフェイク、キックのフォームなどは、本家に酷似していた。
ただ、禁止薬物の使用や反社会組織との関係が明るみに出たマラドーナは契約解除の憂き目に遭い、ナポリの経営状況も悪化。1993-94シーズン、ゾラはパルマ移籍を余儀なくされている。
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著者プロフィール
粕谷秀樹 (かすや・ひでき)
1958年、東京・下北沢生まれ。出版社勤務を経て、2001年
、フリーランスに転身。プレミアリーグ、チャンピオンズリーグ、 海外サッカー情報番組のコメンテイターを務めるとともに、コラム 、エッセイも執筆。著書に『プレミアリーグ観戦レシピ』(東邦出 版)、責任編集では「サッカーのある街」(ベースボールマガジン 社)など多数。