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エリック・カントナという「劇薬」に誰もが心酔 実働わずか4年半でトラブルメーカーはマンUの王様となった (2ページ目)

  • 粕谷秀樹●取材・文 text by Kasuya Hideki

【ギグスも「カッコよかった」と憧れた】

 シェフィールド・ウェンズデイ(1週間のトライアル)とリーズ・ユナイテッドを経て、マンチェスター・ユナイテッドに移籍したのは1992年11月のことだった。

 当時、イングランド屈指の名門クラブは過渡期を迎えていた。デイビッド・ベッカムやライアン・ギグス、ポール・スコールズなど、いわゆる「ファーギーズ・フレッジリングス(アレックス・ファーガソン監督のひな鳥たち)」にはたしかな可能性が感じられたものの、経験不足は明らかだった。

「多くのメディアは『ジネディーヌ・ジダンにマンチェスター・Uが接触』と報じていたけれど、彼はもちろん、エージェントとも一切コンタクトしていない。私が欲していたのはエリック、ただひとりだ。ジダンに興味はなかった」

 サー・アレックス・ファーガソンの述懐である。当時、10代後半だったベッカム世代の経験不足を補うため、なぜカントナにこだわったのだろうか。

「シェフィールド・ウェンズデイやリーズの試合を何度もチェックし、エリックのフットボールにかける情熱が誰よりも熱いことはわかっていた。

 練習場に一番早く姿を現し、最後までボールを蹴っていると、スカウトから聞いていた。孤高の存在で、近寄りがたい雰囲気こそ、私が欲していたものだった」

 2013年5月に勇退したあと、サー・アレックスはハーバード大学の特別講義や著書で、カントナを獲得した理由を明らかにしている。

 また、ギグスが「試合に臨む準備にすらすごみが漂っていてカッコよかった」と憧れ、スコールズは「マーカーの逆をとるワンタッチ・コントロールは芸術的だった」と、フランス人のカリスマに惹かれていったことを明らかにしている。

 フランスでは「トラブルメーカー」のレッテルを貼られ、唯我独尊の典型的な例と考えられていた。負の履歴は先述したとおりだ。しかし、サー・アレックスはカントナの深層を見抜き、若手が羽ばたこうとしていたマンチェスター・Uに「劇薬」として注入したのである。

 ベッカムは右足のキックに磨きがかかった。スコールズはミドルシュートの精度が増し、ギグスのドリブルには破壊力が加味された。すべて、カントナと練習を積み、彼のプレーを目の当たりにした成果である。

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