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ストイコビッチがセルビア代表監督就任。Jリーグで優勝も「名将」と言えるのか (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

 1990年、イタリアワールドカップはファンタジスタが百花繚乱の大会で、ストイコビッチはユーゴスラビア代表として華を添えている。決勝トーナメント1回戦、スペインを延長の末に下した試合では、左からのクロスに対してトラップだけでマーカーを翻弄し、一撃を決めた。FKでは、壁の外側から巻き込むボールをネットへ蹴り込んだ。

 だが、準々決勝ではディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンにPK戦の末に敗退。ストイコビッチはPKを外した。

 マルセイユのエースとして、チャンピオンズリーグ決勝に二度立ち会っている。しかし、一度目(1990―91シーズン、相手はレッドスター・ベオグラード)はケガで先発を外れ、延長戦に出場もチームは敗れた。二度目(1992―93シーズン、相手はミラン)は勝利したが、ストイコビッチはケガでプレーできなかった。悲劇性が天才性と重なる。

 1994年から8シーズンにわたってプレーした名古屋グランパスでは、1995年に年間MVPに輝いた。GKのパントキックを直接ゴールへ放り込むなど、ボレーシュートはお手の物、豪雨の試合でリフティングしながらボールを運ぶシーンは今も語り草になっている。そしてFKでは、どこからであろうと様々な変化をつけ、ゴールに突き刺した。

◆日本サッカーの概念を超越した選手。プレーは自由奔放で弾けていた>>

「ピクシー(ストイコビッチの愛称)ほどキャリアのある選手が、練習からがむしゃらで驚きました。練習で負けるのは試合で負けるのと同じだった」

 当時、グランパスに所属していた福田健二(現横浜FC強化ダイレクター)はそう証言している。連敗を止めるゴールをストイコビッチのパスで決めた次の日のことだった。

「『昨日はおめでとう、次も頼むぞ』というメッセージと一緒に、アルマーニのベルトが更衣室のロッカーに置いてあって、ピクシーのおかげでゴールできたのに、あれは感動しました。こういう男になりたい、と思いました」

 その求心力が、監督1年目の2008年には生きていた。思うがままボールをつなげ、相手を幻惑。バックラインに若き日の吉田麻也を抜擢し、フローデ・ヨンセン、マギヌン、小川佳純、玉田圭司など、どこからでも得点を狙えた。攻撃的にボールを動かして主導権を握る一方、守備も堅さを見せた。優勝は逃したが、3位は勲章だった。

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