「日本人なんていらない」の概念を覆す。奥寺康彦はブンデスリーガで大活躍 (5ページ目)

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • photo by Getty Images

<プライベートとサッカーを切り離した穏やかな生活>

――ケルンでの暮らしはどうでしたか?

「最初に家とかを準備するのに、向こうに住んでいる日本人の方にいろいろと面倒を見てもらいました。僕が先に来て家族が来るまでに1カ月くらいあったんですけど、そこは大変でしたね。でも家族が来てからは精神的にも安らげる時間ができて、安定したと思います」

現在は横浜FCの会長を務める奥寺氏(写真提供/YOKOHAMA FC)現在は横浜FCの会長を務める奥寺氏(写真提供/YOKOHAMA FC)――生活で困ったことなどはありませんでしたか?

「なかったですね。買い物だって近所のスーパーに行けばなんでもあるし、いろいろな手続きだってクラブの人が助けてくれましたから。あと、ケルンのプロ選手であるというのは、その街に住むにあたって大きかった。近所の人は優しいし、役所の人も気を遣ってくれましたね。おそらく一般の人であればもっと大変だったと思います」

――言葉のほうは大丈夫でした?

「毎朝と練習後に、ドイツ語の学校で特訓をしました。自分の気持ちをちゃんと伝えられるようなるまでに1年以上かかりましたね。でも言葉は本当に不安ななかで移籍しましたけど、向こうに飛び込んで必死になれば、なんとかなるもんですよ」

――生活するなかで、なにか印象に残っていることはありますか?

「自宅の前の、通りを挟んだ向かい側の家に、週に1度、おじいちゃんやおばあちゃんたちが集まるんですよ。ある日、遠目に僕が見ていたら、『こっちへ来い』と呼ばれて。

 向こうは僕が誰だかわかっているので、そこでお茶に招待してくれたんですね。家族で行って、おじいちゃんたちとケーキとお茶をよくご馳走になっていました。そうやって一般の方の友人もできたのは、向こうで暮らす上で大きかったですね」

――チームメイトとの付き合いはあったんですか?

「それが向こうの選手たちは、プライベートとサッカーとはきっちりと切り離していて、練習が終わったあとに集まることは、年に数回しかなかったんです。あとはもう個々を大事にしていました。家族と過ごしたり、近所の人たちとお茶したり。

 穏やかな生活だったので、リラックスできましたね。そうやってプライベートと仕事を切り離してドライな感じもありつつ、ちゃんと個人を尊重してくれるドイツの生活はよかったですよ」

(後編につづく)

奥寺康彦
おくでら・やすひこ/1952年3月12日生まれ。秋田県出身。古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)や日本代表でも活躍したのち、77年にドイツ・ブンデスリーガのケルンへ移籍。その後ヘルタ・ベルリン、ブレーメンでもプレーし、9シーズンで通算234試合出場26得点を記録。得点は14年に岡崎慎司に、出場記録は17年に長谷部誠に抜かれるまで、日本人の最多記録だった。古河電工復帰後、88年に引退。その後ジェフユナイテッド市原や横浜FCのGM、監督を務め、現在は横浜FCの会長兼スポーツダイレクターを務める。

5 / 5

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る