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会長続投で証明。「バルサの父」クライフの影響力低下 (2ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper  森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 バルセロナにおけるクライフの存在感を理解するには、彼がカタルーニャに初めてやって来た1973年にさかのぼらなくてはならない。

 彼とオランダ人監督のリヌス・ミケルスは、小さなセミプロのクラブだったアヤックスをヨーロッパ屈指の強豪に育て上げた。ふたりは新しいスタイルを持ち込んだ。ワンタッチのパス。徹底して攻撃的な試合運び。選手たちが目まぐるしくポジションチェンジを繰り返し、GKでさえグローブをつけたフィールドプレイヤーのようにプレイする4-3-3のフォーメーション──。このスタイルは1974年にオランダ代表をワールドカップ決勝に進め、外国人には「トータル・フットボール」と呼ばれた(オランダ人がこの言葉を使ったためしはない)。

 アヤックスの監督を辞めてバルセロナを指揮していたミケルスは、1973年にクライフをバルセロナに呼び寄せた。当時のバルセロナは頑張っても2位止まりで、レアル・マドリードには勝てなかった。ミケルスはそのバルサをスペイン最高のチームに育て上げた。

 1988年、クライフはバルセロナに監督として復帰し、「クライフ流」のフットボールを徹底させた。あるときユースチームを視察していた彼は、中盤を支配しているやせぎすの少年に目を奪われた。クライフは彼をトップチームに引き上げた。若き日のジョゼップ・グアルディオラである。

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