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C・ロナウドが傲慢に見えても、それは理由あってのことだ (2ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 マドリードには今、下着1枚だけのクリスティアーノ・ロナウドの19メートルに及ぶポスターが飾られている。マラドーナを使って同じ広告を打とうとは誰も考えつかなかっただろう。

 今のスター選手はめったにケガをしない。彼らは今後ほぼ永遠に、週2回は才能を存分に発揮するための準備ができている。クリスティアーノ・ロナウドは5年近くにわたり、平均して1試合に1ゴール以上をあげている。スペインのフットボール史をたどっても、この数字は最高のものだ。メッシは2012年に、前例のない91ゴールをあげている。

 今のスター選手が偉大になるのは、当然に思えなくもない。アーセナルの監督アーセン・ベンゲルは、メッシのことを「プレイステーションのようだ」と形容した。まさに人間版のコンピューターゲームなのだ。

 しかし、そうなるまでの過程で失われたものもある。マラドーナは内なる自分との人間的な闘いを僕たちに見せてくれた。メッシが外に示すのは、完璧なプロフェッショナルとしての才能だけだ。それはまるで、画家のクロード・モネが週に2点の傑作を描くという契約にサインして、そのとおり淡々と描いているようなものだ。

 メッシはモネと同じく天才だが、メッシの才能のほうが多くの人に理解してもらえる。彼は世界のいたるところでテレビを見ている人たちに、何かしら特別なものを与えられる。メッシやクリスティアーノ・ロナウドやイブラヒモビッチがいなかったら、僕たちの毎日は今より寂しいものになっているかもしれない。だから僕らが毎日感じている幸福感は、フットボールがテレビでふつうに流れるようにしたルパート・マードックやシルビオ・ベルルスコーニのおかげでもある。
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>>【前編】イブラヒモビッチが完璧なのは、フィジカルの面だけではない

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