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【追悼】「無名だった森保一を見出した」だけではない「稀有なリーダー」今西和男の本質とFC岐阜社長時代の苦難 (2ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Yukihiko Kimura

【1億円以上あるFC岐阜の負債の保証人に】

 ここで、ほとんど知られていないFC岐阜時代のことを記しておきたい。自身の半生を振り返る新聞連載などでも、今西さんがこの時代のことを多く語っていないのは、誰かを批判したくないからである。

 2007年、今西さんはJ2昇格を目指すFC岐阜に、GM(ゼネラルマネジャー)として招聘された。着任して驚いたのは、すでに前任の経営者たちによって、クラブの累積債務が2億円にも膨らんでいたことである。招聘された立場としてチーム強化のみ担当する予定が、すぐに職域外の資金繰りにも乗り出さざるをえない状況になっていった。

 Jリーグは、FC岐阜の経営基盤の脆弱さを見据えて加盟を渋っていたが、「今西が社長になれば、加盟に向けて推せる」という昇格条件を出してきた。サンフレッチェのみならず、大分トリニータ、愛媛FCの立ち上げにも尽力していたその手腕には大きな信頼があった。

 岐阜県知事(当時)の古田肇からも「今西さんに、ぜひ社長をやってもらいたい」とのオファーが届いた。社長になることは、1億円以上ある負債の保証人になることを意味していた。それでも自分が社長にならなければ、このクラブの成長は止まり、あとは規模を縮小し、消滅に向かってしまうことは、明らかだった。今西さんは、それまで県外からどんな好条件のオファーがあっても、障がいを持つ長男のために広島を離れることを拒んでいた。しかし、岐阜の未来のため、悩んだ末に社長就任要請を受けることを決断した。

 当時、十六銀行から金庫番としてFC岐阜に出向していた戸田成人はこう言っていた。

「今西さんは困っている人を見ると放っておけないんでしょう。とっくに倒産してもおかしくないFC岐阜の、あの財務状況のなかで社長になるのは、とんでもないお人好しなんですよ。ただ、今西さんをそういう神輿に乗せて、自分もタニマチみたいにクラブに関わっていきたいという人も周囲にいたんです。だけど、組織にとってはよくないという人も、頼られると受け入れてしまう。それで苦労されていました」

 類まれなお人好しの、岐阜の社長時代の苦労は、まさに筆舌に尽くし難い。それまでの放漫経営の負の遺産をそのまま引き継ぎ、チーム強化どころか、営業活動に忙殺される毎日であった。遠征の経費を削減し、人件費もカットし、自らの給料も下げ、必死に資金繰りに駆けずりまわるも、胸スポンサーは2年連続で決まらなかった。当然であろう。広島生まれ広島育ちのサッカー指導者は、岐阜に縁もゆかりもない。すでに西濃運輸をはじめとする岐阜の財界は、創設時の不信感からFC岐阜に対して大きく距離を取っていたが、そんなことも知らされないまま、いきなり経営に放り込まれ、愚直に営業を続けても、結果は出ない。

 そして出来たばかりのJリーグのクラブライセンス事務局は、ライセンス交付を盾に、地方クラブに対して高圧的だった。今西さんは憤った。

 「苦労している地方クラブに、ライセンスという許認可権をちらつかせて怒鳴ったり、恫喝したりするとはどういうことか。クラブあってのJリーグではないのか」

 普段は腰が低いが、官僚的なものに対して従順ではない硬骨漢と、出来たばかりのライセンス事務局はそりが合わなかった。そもそもサッカークラブの価値は、赤字か黒字かで換算するものではないというのが、今西さんの意見だった。社員にも試合の勝ち負け以上に岐阜という地域を愛し、また、地域に愛されるクラブをつくろうと働きかけていた。

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