清武弘嗣が感じていた日本代表への中毒性 「絶対無理」と言っていた海外への移籍を決断した真相にも迫る (2ページ目)
そうして、2012年5月にニュルンベルクへの完全移籍が決まり、清武はU-23日本代表としてロンドン五輪を戦い終えたあと、チームに合流。海外でのキャリアをスタートさせる。当初は慣れない環境に苦戦した時期もあったと聞くが、そのつど日本代表で手にした自信や、国を背負ってサッカーをすることの重みを知ったことで芽生えた感情に背中を押され続けた。
「2011年に初めて日本代表に入ってすごいなって思ったのは、そこにいる選手のほとんどが、自分は何が武器で、特徴で、どうすれば生き残っていけるのかを知っている人がすごく多かったことでした。長友佑都くん(現FC東京)にしても酒井高徳(現ヴィッセル神戸)にしても、それぞれに選ばれた理由を明確に理解していて、その武器で勝負をしていた。
それに対して僕は、(アルベルト・)ザッケローニ監督から『キヨは常に一定のパフォーマンスが出せる、波のない使いやすい選手だ』みたいには言ってもらっていた一方で、何で勝負をするか、という部分が明確ではなかったというか。
しかも、自分より強烈な個性を持った本田圭佑さんとか、岡ちゃん(岡崎慎司)や真司くんに気圧されていたのか、誰に言われたわけでもないのに『自分は先発の選手が疲れた時に途中から試合に出て流れを変える役割だ』みたいに思い込んじゃっていた。そこは今振り返っても、自分の弱さで、だから秀でた結果を残せなかったんだと思います。
ただ、日の丸を背負って戦うことには途轍もない魅力というか、一度あの舞台を経験したら離れられない、というくらいの中毒性を感じていたので。それを手放したくない一心で、海外で結果を残さなきゃいけない、何がなんでも活躍し続けなきゃいけないと思っていました」
そうした思いは結果でも示され、清武はニュルンベルクでの最初のシーズンとなった2012-2013シーズンで31試合に出場。トップ下のポジションに定着し、ブンデスリーガで4得点10アシストと結果を残してチームの主軸として活躍を見せる。
ディーター・ヘッキング監督に足元の技術を買われ、プロになって初めて、プレースキッカーとしての役割を与えられたのもこのシーズンだ。ただし、意外にもチームの中心選手としてプレーする日々は、自身の成長に対するブレーキを感じることにもつながったと振り返る。
「さっき(前編で)も話したとおり、大分トリニータ時代も、セレッソ時代も、僕は常に自分より明らかにサッカーIQが高くて、めちゃめちゃうまいというような"追いかける人"がいる環境でサッカーをしてきたので。でも、ニュルンベルクではどちらかというと僕がチームの中心というような立ち位置になり......。試合には出してもらいながらも、その環境で自分を成長させる難しさも感じていました。
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