家長昭博には「上にはいけねぇぞ」と咎められた――清武弘嗣にとって干された数カ月が「プロ」としての原点になった (5ページ目)
「今になって思えば、サッカーIQの高い、強烈な個を持った選手がそろっていたからかもしれないですけど、前線には『こんなに好きにやっていいの!?』と衝撃を受けるくらい自由を与えられていました。ただ、甘い監督では決してなく......ちょっと調子に乗っていたら、決まって『サッカーにすべてをかけて海外への道を切り拓いた真司のようになりたくはないのか?』と鼻をへし折られました。
と同時に、繰り返し『おまえのキャリアを変えるのは、数字だ。シュート数やゴールにもっとこだわれ』とも求められた。それまでの僕は、どちらかというと自分が気持ちよくプレーできればOKというタイプで......。ドリブルで抜いて、自分もシュートを打てるけど、横の選手にアシストしちゃう、みたいなプレーに喜びを覚えていたんです。でも、セレッソではよりゴール、アシストといった数字を意識するようになりました」
その証拠に、2010年7月頃からレギュラーに定着した清武はその年、25試合に出場し4得点を挙げると、2011年には25試合に出場し7得点と結果を示す。それはチームの結果にもつながり、クラブ史上最高順位の3位に上り詰めた2010年はリーグ4位の得点数(58)を記録し、2011年にはリーグ2位タイの67得点をマーク。J1きっての攻撃力を印象づける。そのチームの中心選手のひとりとして輝いていた彼は2011年8月、自身初の日本代表に選出された。
(つづく)◆清武弘嗣が感じていた日本代表への中毒性 海外への移籍を決断した真相にも迫る>>
清武弘嗣(きよたけ・ひろし)
1989年11月12日生まれ。大分県出身。大分トリニータのアカデミーで育ち、2008年にトップチームに昇格。2010年、セレッソ大阪に完全移籍して才能が開花。2012年にドイツのニュルンベルクに移籍。以降、ハノーファー、スペインのセビージャでもプレー。2017年にセレッソ大阪へ復帰し、2024年にサガン鳥栖へ期限付き移籍したあと、2025年に古巣の大分へ完全移籍。その間、日本代表、五輪代表でも活躍。2012年ロンドン五輪、2014年ブラジルW杯に出場した。国際Aマッチ出場43試合5得点。
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