家長昭博には「上にはいけねぇぞ」と咎められた――清武弘嗣にとって干された数カ月が「プロ」としての原点になった (3ページ目)
ただ、20代の体ではないのも事実なので。単に走るのではなく、頭を使って走るとか、効率よく走るとか、対人もガッシャン、ガッシャンいくのではなく、視野の取り方、考え方で相手を上回るとか。ここ数年はそういうことも考えつつ、そのうえで自分の持ち味をどう落とし込めるか、より整理できてきた気もします。
とはいえ、今年は僕自身、初めてのJ2リーグで、正直これまでとは違うタフさが求められるのも感じていて......今になって思えば、それが少し気負いになっていたのかもしれません。しかも、古巣に戻ってきたなかで『俺がやらなきゃ話にならんでしょ!』という思いが強すぎて、なんでもかんでもガムシャラにやりすぎていたのかな、と。
実際、足に張りがあるなと思ったら休むとか、体が疲れているなと思ったら少し力を抜くことも必要なのに、『みんなと同じメニューをしたい』『(力を)抜くなんて考えられん』って思いが先に来て、それがうまくできなかった。そんな自分を客観的に見て、『考え方が古いよな~』って思うこともあるんですけど、『もう36歳なんやけん、古くて当然でしょ!』って思う自分もいて、もう厄介(笑)。
でも結局、こうして長い離脱になればチームに迷惑をかけてしまいますからね。そう思って今は、とにかく焦りが敵だと。毎日、自分に言い聞かせています」
振り返れば、幼少の頃から何をするにもガムシャラで、手を抜けない子どもだった。サッカーも、遊びも常に全力。まして、大分ユース時代には高校2年生の終わりから1年強もの時間、ケガでサッカーができない経験も味わったからだろう。「このままだとサッカー選手でいられなくなるかもしれない」という不安に駆られた日々は、より彼のガムシャラさを加速させ、2008年にトップチームに昇格してからも、とにかく「誰よりも練習しなくちゃいけない」「このチャンスをつかみ取らなくちゃいけない」と必死だった。
もっとも当時は生来の負けん気の強さが悪いほうに働いて「プレーの荒さにつながっていたことも多かった」と振り返る。それをチームメイトの家長昭博(現川崎フロンターレ)に咎められたことや、2009年夏から指揮官となったランコ・ポポヴィッチ監督に雷を落とされて数カ月間干された経験が、"プロサッカー選手"としての原点になった。
「小さい頃から僕は気持ちのコントロールがうまくできなくて。自分の思いどおりにプレーできている時は、いいプレーができるのに、ちょっと歯車が狂った途端に感情が爆発しちゃう、みたいな。小学6年生の時の全日本サッカー選手権大会でレフェリーに暴言を吐いて一発退場になるとか、試合中、カッとなって相手選手を引っ張って倒す、削る、みたいなことも何度もありました。
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