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超高校級ストライカーが「未完の大器」で終わった理由 田原豊「大久保嘉人にはあった厳しさが...」 (3ページ目)

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao

【反省はあっても後悔はない】

「たしか連敗していたなか、途中出場した試合で途中交代させられたと思うのですが、試合後に久さんから電話がかかってきて『オマエ、やる気あるのか? 明日から練習に来なくていい!』と怒鳴られたんです。久さんも試合に負けてフラストレーションが溜まっていたとは思います。でも、その時は本当に頭にきました。

 だって、試合に勝ちたくない選手がいると思いますか? 『やる気あるのか?』と言われた時は、まるで自分のすべてを否定されたようで、思わず電話口で言い返してしまった。翌日、監督室に行って『すみませんでした』と伝えましたけど、納得したわけじゃない。プロの世界は適当にやって結果を出せるほど甘くないし、まして自分の生活がかかっているのに、懸命にやらないわけがないじゃないですか」

 ピッチでは常に全力で取り組んだ。足りなかったことがあるとすれば、プロとしての自覚だったかもしれない。

「当時はそれを教えてくれる人がいなかった。僕が若い頃は、まだJリーグバブルを引きずった羽振りのいい先輩も多かったですから。僕はお酒を飲まないし、あまり人とつるむようなことはなかった。ただ、いまのように選手がオンもオフも真摯に競技に向き合うのが当たり前、という時代でもなかった。

 思えば僕は、横浜、京都、湘南――誘惑の多い街でプレーしてきました。もっと田舎でサッカーに集中できる環境だったら、多少はキャリアも違っていたんですかね(苦笑)」

 引退後、一般社会に出たことで、周囲の声に耳を傾けなければ生きていくのが難しいことは理解している。だが、サッカーに関してはいまも自分の信じた考えが揺らぐことはない。

「高校時代は、走りの練習用の赤いコーンがグラウンドに置かれていると、練習に出ず、遊びに行ってしまった。若い頃にもっと走ってスタミナをつけていたら、プロでの違う結果があったかもしれない。スタミナがあれば、もう少し守備で頑張れたでしょうし、プレーの精度や判断力が変わっていたかもしれません。

 でも、"たられば"に意味はないとも思っています。むしろ、僕が周囲の声を聞きすぎていたら、プロにさえなれなかったかもしれない。僕がこういう性格だったからこそ届いた景色もあるはずで、それを含めて自分の人生。反省する部分はあっても、後悔はまったくありません」
(つづく)

田原豊(たはら・ゆたか)
1982年4月27日生まれ。鹿児島県姶良(あいら)市出身。鹿児島実業高校時代は、恵まれた体格から繰り出す豪快なプレーで超高校級FWと称された。2年時の高校選手権では1学年上の松井大輔との2トップで攻撃をリードし、準優勝に貢献。2001年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)では背番号9を託され、全3試合に出場した。Jリーグでは横浜F・マリノス、京都サンガ(現京都サンガF.C.)、湘南ベルマーレ、横浜FCと渡り歩き、京都で2度、湘南で1度のJ1昇格に貢献。2014年にタイのサムットソンクラームを経て、2015年の鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後に引退した。

著者プロフィール

  • 栗原正夫

    栗原正夫 (くりはら・まさお)

    1974年6月11日生まれ、埼玉県出身。大学卒業後、放送、ITメディアでスポーツにかかわり、2006年からフリーランスに。サッカーを中心に国内外のスポーツを取材し、週刊誌やスポーツ誌に寄稿。ワールドカップは1998年、夏季五輪は2004年からすべて現地観戦、取材。メジャーよりマイノリティ、メインストリームよりアンダーグラウンド、表より裏が好み。サッカー・ユーロ、ラグビーワールドカップ、テニス4大大会、NBAファイナル、世界陸上などの取材も多数。

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