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超高校級ストライカーが「未完の大器」で終わった理由 田原豊「大久保嘉人にはあった厳しさが...」 (2ページ目)

  • 栗原正夫●文 text by Kurihara Masao

【信念や厳しさが足りなかった】

 練習は好きだった。でも、走るのは大嫌い。鹿実時代に田原が走りの練習をよくサボっていたのは、広く知られた話だ。プロになってからも、若い頃はサッカーが仕事になった感覚は薄く、部活の延長で"頑張ったらお金がもらえる"程度にしか考えていなかったと振り返る。

「サッカーを仕事として考えれば、2、3時間の練習だけが仕事じゃないですよね。プロなら、体のケアや食事に気をつけるのは当たり前。でも、当時の僕はそこまで意識が回らず、奔放に生きてしまった。それが大成できなかった要因だったのかなと思います」

 プライベートな問題で"0円提示"を受けたことや、サラリーを50%カットされたなかでシーズンをスタートしたこともあった。

「年俸が半分になると、税金を払うのも厳しい。それを何で補うかといえば、結果(によるボーナス)しかない。とにかく必死でした」

 同じ九州出身で同学年の大久保嘉人(国見高出身、J1最多の191点)は、高校時代からのライバルで顔なじみだった。ともにユース代表に名を連ね、田原には大久保以上に将来を嘱望する声もあった。だが、終わってみれば水をあけられてしまった。

「FWって、絶対に我が強くないと成功できない。周りに何か言われて、いちいち下を向いていたらやっていられないですから。そういう意味で、嘉人は我が強かったし、自分への厳しさや信念があった。だからこそ、あそこまで結果を出せたんだと思います。

 よく、学生時代にヤンキーだったけど、社会に出て社長になるなど成功する人っていますよね。ああいう人は、たいてい硬派で信念が強い。僕にも我の強さはありましたけど、信念や厳しさが足りなかった。自分に甘いんですよ(笑)」

 懸命にプレーしていないのではないか――。そんな評価を受けたこともあったが、田原は首を横に振った。プロとして「試合に勝ちたくない」とか「負けてもいい」と思ったことは一度もないし、ベンチに座っていれば、どんな時であれ「点がほしいなら自分を出すべき」と強く思っていたという。

 京都時代、当時の加藤久監督から叱責された際に、怒りが収まらなかったというのも純粋な田原らしいエピソードである。

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