サッカー日本代表に招集も出場は1試合のみ 山田隆裕が明かすJリーグ草創期の「苦い記憶」 (4ページ目)
【日本代表への憧れなどなかった】
オフト・ジャパンは結局、"ドーハの悲劇"に見舞われて、初のワールドカップ出場は叶わなかった。山田は、その後ファルカン・ジャパンにも招集され、94年10月の広島アジア大会などに参加したが、出場はアジア大会直前の壮行試合オーストラリア戦(94年9月27日、0-0)のみで、それが唯一のA代表での記録となっている。
「正直、オーストラリア戦の記憶はまったくないですね」
ファルカン・ジャパン以降は、山田と同世代の選手も多くが日本代表でプレーするようになり、98年フランスワールドカップ初出場、02年日韓ワールドカップへとつながっていった。だが、山田にとっては他人事だった。
フランスワールドカップで背番号10を背負っていたのは、清商時代のクラスメートでもあったMF名波だった。
「『頑張れ』とは思っても、『クソッ、オレも代表でプレーしたいな』という気持ちはなかった。珍しいタイプなのは自分でもわかっています(笑)。
日本代表がワールドカップ出場を意識するはるか前の時代に(高校サッカーが盛んだった)静岡で育ってきた自分にとっては、高校サッカーが最大の目標で、日本代表への特別な憧れなどはなかった。しかも、Jリーグというプロリーグができて、僕のなかで日本代表って、大きなウェイトは占めていなかったんです。別にサッカー選手全員が日本代表を目指す必要もないですし、それぞれに合った形でプロとして生きていく道があってもいいじゃないですか。
もちろん、僕の周りには『もっと賢く立ち回ったほうがいい』と言ってくれる人もいました。でも、いまでも『賢く立ち回ったところで?』と思ってしまうのが自分なんです」
(つづく)
山田隆裕(やまだたかひろ)
1972年4月29日生まれ。大阪府高槻市出身。小学校3年の時に静岡県清水市に転居。清水市立商業高校では1年からレギュラーとして活躍。1988年の全国高等学校サッカー選手権大会決勝の市立船橋高校戦では決勝点を挙げる活躍で優勝に貢献。1989年と1990年に2年連続高校総体、全日本ユース選手権制覇に貢献するなどして注目を集めた。高校卒業後、日産自動車(現横浜F・マリノス)に入部。黎明期のJリーグで人気を博した。1992年には日本代表に選出。その後、京都パープルサンガ、ヴェルディ川崎、ベガルタ仙台でプレー。2003年シーズン途中で現役を引退した。
著者プロフィール
栗原正夫 (くりはら・まさお)
1974年6月11日生まれ、埼玉県出身。大学卒業後、放送、ITメディアでスポーツにかかわり、2006年からフリーランスに。サッカーを中心に国内外のスポーツを取材し、週刊誌やスポーツ誌に寄稿。ワールドカップは1998年、夏季五輪は2004年からすべて現地観戦、取材。メジャーよりマイノリティ、メインストリームよりアンダーグラウンド、表より裏が好み。サッカー・ユーロ、ラグビーワールドカップ、テニス4大大会、NBAファイナル、世界陸上などの取材も多数。
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