サッカー日本代表に招集も出場は1試合のみ 山田隆裕が明かすJリーグ草創期の「苦い記憶」 (2ページ目)
【Jリーグ開幕戦の出場を逃した】
山田は翌年も2月のイタリア遠征、3月のキリンカップのメンバーに名を連ね、4月にスタートしたアメリカワールドカップに向けたアジア一次予選に臨むことになった。アジア一次予選は、日本ラウンドとUAEラウンドの計8試合が行なわれ、日本は7勝1分けの首位で最終予選進出を決めた(2位は6勝1分け1敗のUAE)。
ホームでのバングラデシュ戦は8-0の大勝、スリランカには2試合合計で11-0と危なげない試合をしたが、ここでも山田がピッチに立つことはなかった。
「緊迫した場面ならともかく、どんな展開でもチャンスは回ってこなかった。僕の専門はアウトサイドなのに、そのポジションに専門外の人が起用されたこともありましたから、本当に紅白戦要員なわけです。僕はクラブも代表もチームは"生き物"だと思うし、そこに自分がまったく関わることができなければ、いる意味を見出せないじゃないですか」
そんな山田の思いを決定的にしたのが、93年5月15日のヴェルディ川崎対横浜マリノスのJリーグ開幕戦だった。
ワールドカップアジア一次予選の最終戦は5月7日のUAE戦。Jリーグ開幕まで準備期間は1週間しかなかった。ヴェルディではラモス、カズ、柱谷哲二、武田修宏、北澤豪らの日本代表戦士がピッチで躍動した一方、山田は代表で実戦から遠ざかっていたことで記念すべき舞台に立てなかった。
「開幕戦のピッチに立てば一生残るのに、僕はその機会を逃してしまった。長いこと代表に帯同しながら、試合には使ってもらえない。それでチームに戻ったら、"試合勘が戻ってない"って言われ......。代表活動がプラスになるどころかマイナスに感じました」
山田は中学時代、事業に失敗した父親が失踪するという辛い経験をしている。行方知らずになった父親はその後も見つからず、一時は知人宅に身を寄せるなど、経済的に苦しい生活をしていた時期もあった。サッカーはそんな生活から抜け出す手段だった。だが、代表に招集されても、当時、マリノスでは代表活動が待遇面で評価されることは一切なかった。そんな状況も、山田の心を折った。
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