【高校サッカー】全国トップクラスの実力を誇った東京朝鮮高の歴史 サッカースタイルのルーツは本国そして旧ユーゴから (4ページ目)
【東京朝鮮高サッカーの歴史】
東京朝鮮中高級学校は、在日コリアン(朝鮮籍・韓国籍)の子弟を対象とした民族学校だ。朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)の教育機関体系に属し、朝鮮大学校へ続く一貫教育の中学校・高校課程に該当する。
そもそも日本統治下の朝鮮半島ではサッカーが人気競技だった。「サッカーは道具が少なくともできたスポーツで、日本に対抗することもできた」(『大韓サッカー協会100年史』)という記述もある。さらに当時の朝鮮半島では「京平(キョンピョン)サッカー対抗戦」という大イベントがあった。
「京」はソウルの当時の名称である京城から。「平」は平壌から。要は2大都市の代表チームの定期戦(ホーム&アウェーで行なわれた年もある)なのだが、1930年代のソウルでの試合は、市内5カ所で販売した前売り券7000枚が完売することもあったという。韓国側の資料によると、歴代戦績は平壌側の9勝7分5敗。平壌が勝ち越した全京城蹴球団は1935年の全日本サッカー選手権で優勝を果たしており、そこに勝ち越すほどだったから「北」のサッカーは強かったのだ。
「野球人気先行」の日本とは違う歴史。ちなみに東京朝鮮高には歴史上、野球部が存在した期間が決して長くはない。つまりは「運動神経のある男子にとっての看板スポーツはサッカー」の時代が長く続いている。
1966年には本国がイングランドW杯でベスト8入り。東京朝鮮高サッカー部は、本国サッカーシーンとの交流機会を得るようになる。1966年10月3日に総聯中央金昌鉉教育部長も参加して行なわれた「東京朝鮮中高級学校創立20周年記念祝賀大会」で「30連勝中」「1955年の創部以来301戦240勝」という成績を称えられる(同校公式Webサイトより)。
すると1972年6月には当時の朝鮮社会主義労働青年同盟中央委員会から本国への招待状が届く。同校公式Webサイトによると現地では「恵山軽工業学校と試合」と記されている。
1970年代には本国からのスポーツ選手団の来日も盛んになった。1972年に来日したA代表チームのほか、1973年には万寿台高等軽工業学校が来日。東京朝鮮高を訪問している。同校は当時の高校選手権優勝チーム、浦和市立高(現市立浦和高/埼玉)を2-0で下した。
またこの時代、東京朝鮮高に伝説の指導者が誕生する。1971年から1987年まで監督を務めた金明植(キム・ミョンシク)氏。木村元彦著『無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代』によると、金明植氏は来日した本国チームから、当時最先端だった東欧圏のユーゴやチェコの戦術のメモを受け取った。さらに木村氏は、2018年1月の『Yahoo! ニュースエキスパート』の記事で以下の内容を記している。
「1980年に明植がFIFAのコーチングスクールにピョンヤンに行くと、そこで指導にあたったのが、ユーゴのロス五輪代表監督(このときはコーチにオシムが名前を連ねている)となるイヴァン・トゥプラックであった。朝高はいち早く欧州のサッカー先進国のサッカーに触れていたと言えよう」
これらの情報も力にして1986年までに清水高校サッカーフェスティバルで2度優勝を果たすなど、「影の(高校)ナンバーワン」と呼ばれるようになり、名門校が対戦を望む「朝高詣で」などが盛んに行なわれた。
日本代表が1960年代に「ドイツ(デットマール・クラマー氏)」に教わり、急激に成長を遂げたのに対し、1970年代の在日朝鮮人サッカー界は「本国」そして「ユーゴ」など東欧に教わったのだった。
著者プロフィール
吉崎エイジーニョ (よしざき・えいじーにょ)
ライター。大阪外国語大学(現阪大外国語学部)朝鮮語科卒。サッカー専門誌で13年間韓国サッカーニュースコラムを連載。その他、韓国語にて韓国媒体での連載歴も。2005年には雑誌連載の体当たり取材によりドイツ10部リーグに1シーズン在籍。13試合出場1ゴールを記録した。著書に当時の経験を「儒教・仏教文化圏とキリスト教文化圏のサッカー観の違い」という切り口で記した「メッシと滅私」(集英社新書)など。北九州市出身。本名は吉崎英治。
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