「SNSで最もバズっているJリーガー」J3栃木シティ・田中パウロ淳一の人生を変えた中村憲剛のひと言 (2ページ目)
【「オマエはパウロ」になった】
その後、海外挑戦を試みたが、契約はまとまらず。紆余曲折の末、14年に新設されたばかりのJ3のツエーゲン金沢で再スタートを切ることになった。
ちなみにそれまでの登録名は「田中淳一」だったが、金沢でJ2昇格を果たした2年目のタイミングで「田中パウロ淳一」に変更している。田中パウロは日本人の父とフィリピン人の母を持つが、"パウロ"はセカンドネームではなく、あくまで愛称だ。
「もともとはただの"あだ名"です。大阪桐蔭のサッカー部に入ったときに、先輩が直前に『やべっちFC』に闘莉王さんのお父さんのパウロさんが出ているのを見ていたらしく、同じ田中姓ということで"オマエはパウロ"となって(笑)。
そしたら響きがよかったのか、チームメートだけじゃなく、大会とかに行くとほかのチームの選手からもパウロって呼ばれるようになるなど、いつの間にか定着して。川崎に入ったときも、サポーターのコールはパウロでしたからね。そしたら、もうパウロでいいじゃないかと思い、登録名を"田中パウロ淳一"にしました」
金沢のあとはFC岐阜、レノファ山口、松本山雅FCとクラブを渡り歩いたが、先発に定着できた時期は短く、思いどおりにプレーできないシーズンが続いた。22年にはJ3の松本山雅で、8試合で3点を挙げたが、先発出場は2試合のみで契約満了となった。
そこから栃木シティに加入し現在に至るが、当時は引退も考えていたと明かす。
「松本のときは正直、サッカーをやめようと思った時期もありました。なんか僕は"ボールを持つとひとりでサッカーをする"という偏見を持たれているんじゃないかと感じたこともありましたし。栃木シティからは早い段階で声をかけてもらっていましたが、当時の僕はサッカーを続けるなら『Jリーグ』しか考えていなかったので、最初は断っていたのですが、結局、どこにも行くところがなく栃木シティにお世話になることにしました。ただ、来た以上は腹を括って臨む覚悟を決めました。そうしないと続かないですからね」
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