FC町田ゼルビアのミッチェル・デュークが語るJリーグ初体験時の思い出「ロンドのボールが奪えなかった」 (2ページ目)

  • 井川洋一●取材・文 text by Igawa Yoichi

【ファジアーノ岡山のオファーに即答】

 とはいえ、清水では1年目に降格を経験し、J2での2年目にはヒザに重傷を負い、シーズンの大半を棒に振った。チームが1年で再昇格したあとの3年目は、J1でプレーしたものの、本来とは異なるポジションを任されることもあった。

「それまではストライカーやウイングとしてプレーしてきたのに、清水ではサイドハーフで起用されることもあった。スタミナや走力には自信があるし、そこを評価されたからこそ任された役割だったと思う。でも、僕はアタッカーだから、すっかり楽しんだかと言われると、そうではなかった」

 4年目には少しずつ出番が減っていき、当時のパートナーと話し合った結果、母国のウェスタン・シドニー・ワンダラーズへ移籍。その後のサウジアラビアのアル・タアーウンでの半年間の在籍を含めた2年半、日本を離れていたが、2021年夏に再び来日。東京五輪に出場した。

「五輪代表の選手として日本に来ることになった時、日本に戻れば、また日本でプレーしたくなり、また日本で暮らしたくなるだろうと思っていたんだけど、本当にそんな心境になった。そして五輪後にファジアーノ(岡山)から声がかかり、即答。イエスと言うのは簡単だったよ」

 シーズン途中に加わった岡山では、もっとも得意とするセンターフォワードに固定され、初のフルシーズンとなった2022年には、クラブ史上最高となるJ2での3位フィニッシュに貢献した。

「ファジアーノはJ2のクラブだけど、それはまったく気にならなかった。当時はほかのオプションがあまりなかったし、自分にはJ1でやれるクオリティーがあると信じていたから、J2で活躍すれば、道は開けると思っていたんだ」

 実際、そのとおりになった。まず直後のカタールW杯に、オーストラリア代表の一員として出場。31歳にして初めて世界の檜舞台に立ったデュークは、フランスとのグループ初戦(1-4の敗北)から、のちに優勝するアルゼンチンとのラウンド16(決勝トーナメント1回戦/1-2の敗北)までの計4試合に先発し、グループ2戦目のチュニジア戦では、この試合で唯一のゴールを決めて、オーストラリアの同大会初勝利の立役者となった。

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