村井満×ジーコ対談 「異端のチェアマン」が「神様」と親友になったキッカケ (5ページ目)
村井 あの開幕戦、私も自宅でテレビ観戦でした。どうしても国立のスタンドで観戦したくて、100枚くらい応募ハガキを出したんだけど、1枚も当たらなくて(苦笑)。国立の芝生は、今と比べてそれほど青々としていなかったんだけど、スポットライトを浴びたカラフルなユニフォームが美しく映えて、「これから始まるんだ」という期待感がありましたよね。
── 翌日のジーコさんのハットトリックについては、いかがでしょう?
村井 もちろん覚えています。特に3点目。アルシンドが左サイドから折り返して、ジーコさんがボレーで決めましたよね?
それで思い出したんだけど、2017年にブラジルを訪れた時、その30年前にカンピオナート・ブラジレイロで優勝したフラメンゴの元メンバーが集まってパーティを開催していたんですよ。ジーコさんはもちろん、アルシンドやレオナルドもいて「この人たちはJリーグでもプレーしていたんだな」と思うと感慨深かったですね。
ジーコ 優勝した1987年のフラメンゴには、アルシンドやレオナルドのほかにも、ベベットやジョルジーニョなど、のちに鹿島でプレーする選手たちもいました。それから、横浜フリューゲルスでプレーしたジーニョも。さすがにアウダイールは、日本に来ませんでしたが(笑)。
村井 そういった世界的なプレーヤーたちが、プロリーグが始まったばかりの日本に来てくれたのが、今から30年前なんですよ。それは単にスター選手が集まっただけでなく、一緒に新しいリーグを作り上げる仲間が世界中から来てくれた。そういう意味で、いちファンだった私にとっても、とてもうれしく感じられたのを覚えています。
ジーコ 私も日本でプロリーグが始まるということで、少しでもサッカー文化が根づくことに貢献したいという思いから来日しました。ただし、鹿島アントラーズというクラブだけで、それができるわけではない。当時の親会社だった住友金属、スポンサー、それからホームタウンの行政や地域のみなさん、そうした方々の協力があればこそ、あれだけのムーブメントが生まれたんだと思っています。
(中編につづく)
◆村井満×ジーコ・中編>>「浦和と鹿島のタイトル数の差は何?」
【profile】
村井満(むらい・みつる)
1959年8月2日生まれ、埼玉県川越市出身。日本リクルートセンターに入社後、執行役員、リクルートエイブリック(現・リクルートエージェント)代表取締役社長、香港法人社長を経て2013年退任。日本プロサッカーリーグ理事を経て2014年より第5代Jリーグチェアマンに就任。4期8年にわたりチェアマンを務め、2022年3月退任。2023年6月より日本バドミントン協会会長。浦和レッズの熱心なサポーターとしても知られる。
ジーコ
1953年3月3日生まれ、ブラジル・リオデジャネイロ出身。1971年からフラメンゴでプレーし、1983年にウディネーゼへ移籍。契約問題で2年後に再びフラメンゴに戻り、1989年に一度は引退するも、1991年に住友金属(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受けて1994年までプレー。ブラジル代表として72試合52得点を記録し、ワールドカップは1978年・1982年・1986年大会に出場。2002年から2006年まで日本代表監督を務める。
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村井満氏のチェアマン時代のことが一冊の本になりました。
1993年の開幕以来、日本プロスポーツ界に確固たる地位を築いてきたJリーグだが、長年にわたって人気の低迷と資金繰りにあえいできたことはあまり知られていない。そんな迷走するJリーグの行く末を託されたのが、サッカーとは無縁のビジネス界からやってきた男、村井満。
ビジネスの最前線で磨いてきた組織運営力を武器に、次々と抜本的な改革に取り組んでいった村井だが、そこに差別問題、ハラスメント事案、自然災害といったかつてない危機が次々襲いかかる。その極めつけがコロナ禍の到来。試合を開催できないなか、リーグ清算さえ覚悟せざるを得ないほど追い込まれた村井は、Jリーグは、いかにしてこれに対峙したのか……。
長年、Jリーグを取材し続けてきた宇都宮徹壱が、40名を超える関係者らへの取材をもとに、村井体制の知られざる真実に光を当てたノンフィクション大作。サッカーファンが楽しめる読み物としてはもちろん、スポーツビジネスの実例、リーダー論や組織論、リスクマネジメントの教科書としてもお読みいただける一冊です。
【書籍名】 異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実
【発 行】 集英社インターナショナル
【発売日】 2023年12月5日(火)
【定 価】 本体2,200円+税
【写真】堀北真希、新垣結衣、川島海荷、川口春奈、広瀬すず、永野芽郁、森七菜…高校選手権「歴代応援マネージャー」
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