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神戸入りするビジャの実像。
炭鉱の町で育った仲間思いのストライカー (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki photo by KYODO

 筆者は昔、ビジャの生まれ故郷、トゥイージャ(アストゥリアス県ラングレオ市にある8つの教区のひとつ)を訊ねたことがある。そこは80年代まで炭鉱の町として賑やかだった。しかし90年代に入ってから、炭鉱の閉鎖で人口は激減した。

「エル・グアッヘ」

 スペイン語で、「炭鉱夫見習い」とビジャが呼ばれるようになった理由は、この町の出身であったことに由来している。

 炭坑は地下800mでの仕事で、日の光も届かない。落盤事故や火事によって何人もが命を落としてきた。生き残っても肺病に苦しむ者がいて、命を懸けて入っていく。それだけに、絆や仲間意識は強い。ビジャの父も、誰からも愛される炭鉱夫だった。

「僕の役目はいつだって同じだよ。チームが勝つために全力を尽くす。チームのひとりになる、それだけだ」

 ビジャは気持ちを込めて、チームの一員としての信条を語る。それは炭鉱夫としての心得にも通じるかもしれない。仲間の思いに応えられる選手だ。

 それだけに、己には厳しい。

 ビジャは4歳のとき、サッカーをしていて相手の全体重が右足に乗り、大腿骨を骨折した。歩行に障害が出てもおかしくない大ケガを負ったが、ベッドに座って父親が投げるボールを蹴り返したという。

 炭鉱地の地方クラブだけに、雨が降ると土の炭が溶け、ユニフォームやスパイクは真っ黒になった。10代前半は、1部クラブのテストに落ち続けた。所属していたユースのトップは4部のクラブ。当地の冬の寒さは辛く、上に上がれない少年にとってはサッカーが遊びになったが、彼は一度も志を捨てなかった。

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