【恩田社長の600日】もっともっと
スタッフと一緒に働きたかった (3ページ目)
続いては、個人的・内輪の話です。
日本において、身内を褒めるのはタブー視されていますが、FC岐阜を離れた今、スペースを借りて、一緒に戦ってくれたFC岐阜スタッフへの思いを書き記しておきたいと思います。
2014年5月、社長就任から1ヵ月も立たない頃、私はALSの診断を受けます。私は迷うことなく、病気を隠すことを決意します。もちろん、新生FC岐阜に水を差したくないという思いは強くありました。しかし、私が最も恐れていたのはALSを世間に公表することで、社長を辞めさせられることでした。
FC岐阜には2014年2月から入り、社長就任の4月まで、見られるだけの活動を見て、話せるだけスタッフと話をしました。その中で、FC岐阜の魅力と個性豊かなスタッフの能力の可能性を実感し、「この人たちとなら、きっと面白いことができる!」と確信していました。ALSを公表せざるを得ないまでに病気が進行する前に、何かを成し遂げられるはずだと思いました。ALSを理由に、社長不戦敗だけは絶対に嫌でした。
そして、社長シーズン1年目、FC岐阜スタッフは私の予想をはるかに超えた、アイデアと行動力を見せ、スタジアムをアミューズメントパークに彩ってくれました。私からのどんな無茶ぶりも受け止めてくれました。私にとって、掛け替えのない楽しい時間でした。
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