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【育将・今西和男】小林伸二「明日から広島ユースの監督をやれ、と言われて」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 小林の脳裏には島原商業時代に自らマイクロバスを運転して、本州の強豪チームとの連戦に挑んだ小嶺忠敏監督の姿が浮かんだのかもしれない。「それもそうだな」。今西は即答して、マツダ本社に掛け合ってくれた。バスが手に入り、1年目は高田純や原田鉱介という逸材が順調に育ちつつあった。

 ユース創設2年目を前にして、今西と小林はさらに英断を下す。1期生が15人いて、翌年2期生は25人の加入を予定している。そうなれば、もう今の下宿では受け入れられない。寮を作ることを決断した。近郊には5000坪と1000坪の土地があった。5000坪の方を押さえて、じっくりとトップの施設も一緒に作ったらどうかという意見もあったが、小林は反対した。

「まずはユースの寮ですよ。絶対に必要なものですから。1000坪でいいから、こちらを早急に作りましょう」

 今西も賛同した。サンフレッチェが育成型のクラブとして舵を切った瞬間とも言えよう。寮は夏過ぎから設計を始めて、翌年の3月にはもう完成した。2人部屋で20床。1階に浴場、筋トレ室、ミーティングルーム、食堂。奥にはツインの宿泊部屋も作り、若い選手の両親が来たときに泊まってもらえるようにした。当時、ユースの寮としては日本一を誇る施設だった。

「サッカーだけではなく、学業も大切にする」という理念の下で、2期生からは全員が地元の県立吉田高校に入学するというシステムを築きあげた。現在、いくつものJリーグの育成組織が取り入れているユースチームと高校の提携という試みを最初に行なったのが、この94年の段階のサンフレッチェである。選手たちはユースのサッカー選手である前に「良き高校生であれ」と教えられ、寮を起点に学校とグラウンドというトライアングルを往還する。試験で赤点を取ったら練習はさせてもらえない、という規律が存在したので、学業にも自然と取り組むことになる。

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