【育将・今西和男】小林伸二「明日から広島ユースの監督をやれ、と言われて」 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 努力をしても、やはりプロの壁は厚いもので、ユースからトップチームに昇格できるのは一握りの選手である。いつかサッカーを辞めるときのためにも、しっかりと勉強もさせようという今西の考えは徹底していた。小林もまたサッカーの指導以外の領域にも飛び込んでいき、積極的に授業参観に参加したり、遠征のたびに土産などを持って、学校に挨拶に行った。そして、ちょうど3学年がすべてそろった1995年、サンフレッチェユースは見事にJユース選手権大会で優勝する。

 準決勝の相手は稲本潤一、新井場徹を擁し、優勝候補と目されていたガンバ大阪ユースであった。前年までは歯が立たなかったが、石川裕司の活躍を引き出した小林の采配があたり、この試合を6対3というダブルスコアで下す。決勝のヴェルディ川崎戦も3対1で勝利した。MVPは2ゴールを挙げた1期生の高田純。ユース組織を立ち上げて、たった3年での全国一を成し遂げた。

 以降、この確立されたシステムの中から、駒野友一、森﨑浩司・和幸兄弟、前田俊介、高萩洋次郎、 槙野智章、柏木陽介などが巣立っていくのは周知の通りである。


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【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)-東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める。


小林伸二(こばやし・しんじ)
1960年8月24日、長崎県生まれ。島原商高、大阪商業大を経て、1983年マツダに入団。1990年、現役を引退し、そのままマツダのコーチを務める。サンフレッチェ広島ユースが創設され、初代監督に就任。その後、アビスパ福岡と大分トリニータのサテライト監督を務め、2001年6月トップチームの石崎信弘監督が解任されたため、大分トリニータ監督に。翌年、J2優勝し、J1へ昇格を果たす。その後はセレッソ大阪でJ1優勝争いを演じたり、モンテディオ山形、徳島ヴォルティスをJ1昇格に導くなど、手腕を発揮した。2016年、J2清水エスパルス監督に就任した。

 

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