【サッカー事件簿】「史上最強」の日本代表はなぜ崩壊したのか 川口能活は「もう少しリーダーシップを取るべきだった」 (3ページ目)
川口は所属のジュビロ磐田に戻って、ワールドカップでの戦いを冷静に振り返ってみた。ピッチ上では自分の仕事をある程度全うできたが、ピッチ外では課題が残ったと感じた。
「ワールドカップが終わったあと、チームの雰囲気づくりの面でもう少しリーダーシップを取るべきだったなと思いました。でも、できなかった。それは、なぜなのか。いろいろと考えました。
僕は日韓大会のとき、出場機会がなく、その後も代表には呼ばれるけど、出たり、出なかったりしていたんです。そして、2004年のアジアカップのときに大会を通して起用してもらい、タイトルを獲得できたのですが、そのとき、以前と違う自分の立ち位置を感じました。
"自分が引っ張る"という、以前のような強いキャラを出せなくなったんです。(チーム内では)自分はわりと年齢が上のほうだったので、それじゃあ、ダメなんですけど......」
若い頃の川口は、それこそ1996年アトランタ五輪の頃から、最後尾から大きな声を張り上げて、目をギラギラさせてプレーしていた。ピッチ外でも、他の選手にあれこれ指示したり、注文をつけたりすることにためらいはなく、"チームのために"と思うことは、衝突することも構わずにはっきりとモノを言ってきた。
「若いときは(自分が)言いたいことを、ただ言っていただけのような気もしますけど......(苦笑)。それはともかく、自分は日韓ワールドカップで試合に出られない経験をしたにもかかわらず、ドイツワールドカップでその経験を生かして、選手たちにいい影響を与えられる声かけだったり、チームの雰囲気づくりに率先して動いたりとか、そういうことができなかった。
(大会を振り返って)それは、嫌われる立場になっても言わないとダメだな、と。もっと個別に声をかけていかないとダメだな、と思いました」
そうした経験を糧とし、人間的な成長を見せた川口は、新たな指揮官となったイビチャ・オシムのもと、2010年南アフリカワールドカップに向けて始動した日本代表にも招集されたのである。
(文中敬称略/つづく)
川口能活(かわぐち・よしかつ)
1975年8月15日生まれ。静岡県出身。清水市商高を卒業後、1994年に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入。2年目にはレギュラーとなり、チームのJリーグ初制覇に貢献した。2001年にはイングランド2部のポーツマス入り。日本人GKとして初の欧州移籍を果たす。2003年からはデンマークのノアシェランでプレー。2005年に帰国し、ジュビロ磐田へ移籍。その後、J2のFC岐阜、J3のSC相模原でプレー。2018年シーズンを最後に、現役を引退した。その間、年代別代表、日本代表でも活躍。1996年アトランタ五輪に出場。ワールドカップには、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会と4大会でメンバー入り。国際Aマッチ116試合出場。
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