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若き日の青山敏弘がぶち当たったプロの壁 ミシャとの出会い、そして生涯忘れることのない悔しさ (4ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【生涯忘れることのない悔しさ】

 ミシャの下でついに才能を開花させた青山だったが、翌2007年に再び試練が訪れる。チームの主軸を担う一方で、北京五輪を目指すU-22日本代表の活動にも参加するなかで、コンディションを落としてしまったのだ。

「コンディションと感覚がまったくフィットしなくなって。チームの状態がよくないなかで、そこに自分が何かをもたらす力を出せなかったのは、きつかったですね。チームを動かすだけのパワーがなかったんですよ。何もできなかったし、本当にもどかしかった」

 青山は北京五輪出場をかけたサウジアラビアとの一戦で、決死のシュートブロックでピンチをしのぎ、予選突破の立役者となった。一方でその試合で右足を骨折し、残りのシーズンのピッチに立てなかった。

 残留争いに巻き込まれていた広島は最後まで状態を上げられず、京都サンガとの入れ替え戦に回ることとなり、その試合に敗れてJ2降格の屈辱を味わった。その瞬間を、松葉づえ姿の青山は何もできないまま受け入れるだけだった。

 それでも青山にとっても、広島にとってもこのJ2降格は、大きなターニングポイントとなった。

「自分の力もそうだし、チームの力のなさも突きつけてくれた。変わんなきゃいけないなって。あの降格は、いいきっかけになりましたね」

 2008年、降格した広島はJ2の舞台でまさに無双状態だった。開幕から首位の座を譲ることなく、7試合を残してJ1復帰を決めた。勝ち点100、得点99と他を寄せつけない圧倒的な強さを示したのだ。

「本当に自信をつけてJ1に戻ることができた。3-4-2-1のシステムが築かれたのはこの年だったし、僕自身のスタイルが築かれたのもあの年だったと思う。縦パスだったり、勝負するパスだったり、展開力だったり、J2でやったことで、磨かれていったと思っています」

 一方でその2008年には、生涯忘れることのない悔しさも味わった。すべてをかけていた北京五輪のメンバーから落選したのだ。

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