25年前のワールドユース準優勝メンバーの「その後」 20歳の高田保則は周囲の評価のギャップに苦しんでいた (3ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【チームの和を乱すような行動をしてしまった】

 プロ5年目の2001年には、キャリアハイとなる17ゴールを叩き出した。翌2002年もチームトップの9ゴールを記録する。しかし、2003年は3ゴール、2004年は6ゴールに終わる。翌2005年は出場機会が減り、9月に横浜FCへ期限付き移籍した。

「横浜FCが声をかけてくれたんですけど、移籍期限の関係で、一日で答えを出さなきゃいけない。ベルマーレで出られていないし、環境を変えなきゃと考えたので、移籍を決断しました」

 新天地で再起を果たすという気持ちは強かったが、歯車はすでに狂い始めている。合流後すぐにケガをしてしまい、股関節に痛みを抱えながらプレーした。

 納得できる結果を、残せるはずもない。8試合1ゴールにとどまり、期限付き移籍は延長されなかった。ベルマーレからも、契約を延長しない旨を告げられた。26歳の冬である。

「2005年のベルマーレでは、FWではなく右サイドで使われていました。それが納得できずに、監督とぶつかってしまった。チームの和を乱すような行動をしてしまったのだから、契約を延長してもらえなくても仕方がなかったでしょうね」

 ワールドユースでともに戦った高原や稲本、中田浩二らは、海外でプレーしていた。小野は2006年1月にフェイエノールトから浦和レッズへ復帰する。かつてのチームメイトが国内外のトップカテゴリーで活躍をしているなかで、高田は2006年からJ2のザスパ草津(現・ザスパ群馬)の一員となった。

 2005年にJ2に初参戦したザスパは、12チーム中最下位に終わっていた。同年には経営問題に揺れており、選手人件費には限りがあった。練習環境も整っていたとは言いがたい。プレシーズン最初の練習試合では、地元の前橋育英高校に負けてしまった。

 ところが、高田の心は澄み渡っているのだ。

「プロと言うよりは、高校時代を思い出すような環境で、年俸もかなり減ってしまいましたけど、サッカーにひたむきに取り組む選手たちの姿勢に共感しましたし、チームでサッカーを作っていくことがメッチャ楽しかったです。

『点を取ったあと、取られたあとの5分はハイパワーでいく』とか、ひとつずつルールを作っていって。あとは、植木(繁晴/当時のザスパ監督)さんがFWで使ってくれたのも大きかったですね」

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