25年前のワールドユース準優勝メンバーの「その後」 20歳の高田保則は周囲の評価のギャップに苦しんでいた (2ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【環境の変化のスピード感についていけなかった】

 高田が所属するベルマーレはメインスポンサーが撤退し、1999年シーズンを前に主力選手が大量に離脱していた。大幅な戦力ダウンを強いられたチームは、ファースト、セカンド両ステージともに最下位に沈み、J2へ降格してしまうのである。

「1997年にプロになって、1998年の8月にJ1デビューを飾って、1999年は開幕戦から使ってもらって、そこからワールドユースに参加して......。デビューしてから自分を取り巻く環境が目まぐるしく変わっていって、そのスピード感についていけなかったですね」

現在45歳の高田保則に現役時代を振り返ってもらった photo by Sano Miki現在45歳の高田保則に現役時代を振り返ってもらった photo by Sano Mikiこの記事に関連する写真を見る ワールドユース準優勝メンバーの20歳は、帰国直後から「エースストライカー」として扱われるようになっていた。J1で何かを成し遂げたわけでもない自分と、周囲の評価にギャップを感じ、高田は人知れず苦しんでいく。

「僕はそもそも無名の存在です。中学時代はF・マリノスに名前が変わる前の日産FCのジュニアユースに所属していて、中村俊輔とかが同期のチームで、一度も試合に出ていません。

 高校からベルマーレのユースに入りましたけど、一日一日を大切にして、努力を積み重ねて、ちょっとずつ、ちょっとずつ、プロに近づいていきました。ベルマーレでも最初はプロ契約じゃなくてトレーニー契約で、給料は7万5千円でした」

 ベルマーレをJ1へ戻すためには、成長の歩幅を広げなければならない。点を取らなきゃ。やらなきゃ......強制的に芽生えた責任感は、やがて変質していく。

「プロ1年目には日本代表にも選ばれた野口幸司さんがいて、2年目の1998年はフランスワールドカップに出場した呂比須ワグナーさんと2トップを組ませてもらって。すっごく楽しいなあ......と感じていたら、野口さんも呂比須さんも移籍していきました。

 先輩FWから学んでいた側から、活躍する側にならなきゃいけなくなったので、それはちょっと......難しかったですね。でも、クラブの経営に余裕があったら、僕の実力ではトップチームに上がっていなかったと思うんです。若手を使う方針になって、チャンスが巡ってきたと思いますから、チーム内での立場が変わっていったことも、仕方がなかったのかなと思います」

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