金田喜稔が"木村和司伝説"のなかでも「森進一のモノマネの次ぐらい」という衝撃を受けた試合がある
木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第8回:金田喜稔評(8)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
木村和司氏のさまざまな伝説について語ってくれた金田喜稔氏 photo by Miki Sanoこの記事に関連する写真を見る
日産自動車サッカー部が、当時の国内トップリーグである日本リーグ1部に初めて昇格したのは、1979年のこと。
日産はまだ、決して強豪とは呼べない新興勢力だったが、1980年に加入した金田喜稔を皮切りに、木村和司、水沼貴史、柱谷幸一、佐野達、柱谷哲二、長谷川健太ら、毎年のように大学サッカー界の有力選手が新戦力として加わっていった。
1981年に一度は2部降格となるが、翌1982年に1部復帰を果たすと、1年後には天皇杯を初制覇。そこからの9年で10個のタイトルを獲得し、1988-1989、1989-1990シーズンでは"三冠連覇"を達成している。
金田の言葉を借りれば、「言うたらホンマ、バケモンみたいなチームやったと思うし、中心は和司ですよ」。無敵のタレント軍団にあってもなお、木村は別格の存在だった。
そんな木村について、金田が自らの不徳とともに、強く印象に残っている試合がある。
それが1982年8月24日に大阪球場で行なわれた、JSL東西対抗戦(のちのオールスターサッカー)。時は、まさに"日産黄金時代前夜"のことである。
「ワシも和司も(その試合のメンバーに)選ばれたんですけど、ワシは風邪引いたんですよ。それなのに夜遊びしとって治らんで(苦笑)、大阪の病院で注射を打ってもらったけど、熱が引かなかった。結局、ワシは(試合に)出れなかったわけです」
当時の金田や木村と言えば、日本代表でも中心をなすスター選手。有名選手ばかりが集まる試合のなかでも、特別な注目を集める存在だった。誤解を恐れず言えば、この手の試合で活躍することは決まっていた、と言ってもいいだろう。
ところが、金田はグラウンドの外から試合を観戦するはめになった。そこで目にしたのは、ひとり別次元のプレーを披露し、脚光を浴びる木村の姿だった。
「1対1になっても勝負して勝つわ、浮き球を地面にぶつけて弾ませて相手を抜くわ、とにかく好き放題やってて、『コイツ、やっぱすごいな』と。それで、和司はMVP獲ったんですよ。その時に、『ワシ、風邪ひいてアホやん』って、すごく後悔したことを覚えてる。『夜遊びしなきゃ、ワシが活躍しとったはずなのに』みたいな(苦笑)」














