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その場にいなかった「後悔がある」 本来代表の中心にいるべき男は木村和司の伝説のFKをどこか冷めた目で見ていた

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada

木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第7回:金田喜稔評(7)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

メキシコW杯アジア最終予選の韓国戦で鮮やかなFKを決めた木村和司(背番号10) photo by スポーツ報知/アフロメキシコW杯アジア最終予選の韓国戦で鮮やかなFKを決めた木村和司(背番号10) photo by スポーツ報知/アフロこの記事に関連する写真を見る 木村和司のFKと聞いて、おそらく多くの人が思い浮かべるのは、1985年10月26日、東京・国立競技場での日韓戦で放たれた"伝説のFK"だろう。

 日本代表はその年、翌1986年にメキシコで開催されるワールドカップへの出場権をかけたアジア予選を一次、二次と勝ち上がり、最終予選で韓国と顔を合わせた。結果から言えば、日本はホームアンドアウエーの2試合とも韓国に敗れ、ワールドカップ初出場を逃すことになる。

 だが、ホームでの初戦、日本は0-2とリードを許して迎えた前半43分に、木村がおよそ25メートルのFKを直接叩き込み、一矢を報いた。

 美しい軌道を描いてゴール左上に突き刺さったFKは、"日本が最もワールドカップに近づいた瞬間"とともに、現在まで長く語り継がれている。

 ところが、だ。

 伝説のFKが生まれた試合を見ていた金田喜稔の心の内は、そうした感傷的なものとは少しばかり距離を置いたところにあった。

「和司とか、あの時の(日本代表の)レギュラー組ともよう話したけど、ホームで1-2(の敗戦)じゃあ、話にならんわけですよ。で、アウェーでも勝てなかった。だから、惜しかったとか、(ワールドカップに)近づいたっていう気持ちもない。国立が満員になって、(木村のFKが)強烈だったから、ウワーッて盛り上がって印象深いとは思うけど、力の関係で言うたら、当時の韓国には(日本は)ほぼ勝てなかったからね」

 そんな冷めた感情になるのには、理由がある。

 いまだ破られていない日本代表最年少得点記録を保持していることでもわかるように、10代にして華々しいデビューを果たした金田は、その後も長く日本代表の中心選手として活躍することが期待されていた。

 しかし、1984年ロサンゼルスオリンピックのアジア最終予選で惨敗したことをきっかけに、金田は「代表を辞退するために、加茂(周/当時日産自動車監督)さんに『もう日産だけでやりたい』って伝えて、森(孝慈/当時日本代表監督)さんからのオファーを全部断ってもらってた」のである。

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