黄金世代はトルシエにとって、まさに黄金だった。「彼らをベースに五輪代表、A代表を作り上げていく」 (4ページ目)
当時、トルシエにこう言われたことがあった。
「ある人たちは、私にこう言う。『トルシエさん、あなたの言っていることは正しいし、日本人の多くも心のなかでは同じことを感じている。しかし、簡単には変わらない。あなたが望んでいることは、もっとずっとあとになってから実現するでしょう』と。
それに対して、私はこう答えた。『私には時間がない。W杯で結果を出すために実現しなければならないから、私は戦っている』と。私は、そのために日本に来たのだから」
トルシエほど、軋轢と対立を繰り返した日本代表監督は他にいない。Jリーグのクラブにもいない。世界を見渡しても、私の知る限り、他にほとんど例がない。にもかかわらず、彼はさまざまな紆余曲折を経ながら日本で4年間仕事をまっとうし、求められたノルマ以上のものを達成した。
ヨーロッパではトルシエ以上に評価の高いハリルホジッチが、能力に見合った結果を残しながら、W杯直前に2度ならず3度までも解任される事態を鑑みた時、トルコ戦の不完全燃焼さは残ったにせよ、トルシエと日本の関係が良好のまますべてが終わったのは、奇跡に近いことなのかもしれないと、今は思う。
ただ、トルシエには、感情的な反発を喚起しながらも、彼は間違っていないと感じさせる何かがあったのもまた確かだった。トルシエは言う。
「私のメソッドは、選手には驚きだった。協会もまた、私のプログラム実践に少なからず驚いた。それは、プレスにも驚きだった。記者会見で私は、自分の考えを丁寧に説明した。どんなコンセプトに基づき、どう準備を進めていくか、どんなチームを作り上げるのか。そうしたことが、当時はすべて新しかった。特別だったと言える」
それが、今では日本サッカーのベースになっている。
「私もそう思う。あれから20年が経った今、私がどんな仕事をしたかを誰もが理解している。人々は忘れていないだろう」
(文中敬称略/おわり)
フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。
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