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黄金世代はトルシエにとって、まさに黄金だった。「彼らをベースに五輪代表、A代表を作り上げていく」 (3ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi
  • photo by AFLO

 そのうえで、明確なプレーの原理に基づいた方法論があれば、実践するためには多くの調整と強い決意が必要だ。選手たちが順守すべきプレーについて、妥協はしなかった。

 もちろん、選手の自由もあるが、原理はあくまでもボールを意図的に動かしてコレクティブにプレーすることであり、それを実践するために、私は彼らが私のやり方に従うことを望んだ。その場合の自由とは相対的なもので、選手はいつも自分の好きなようにプレーしていいわけではない。とりわけチームがスタートした当初はそこが重要で、選手たちがコレクティブにボールを動かして走ることを徹底した」

 彼にとって、他の方法は考えられなかった。それゆえ、時に協会に対しても厳しく要求した。

「クラブにはそれぞれの目的と事情があり、優勝を目指したり、降格を避けるために戦っている。そこには、代表との利害の対立があるが、私はできる限りよい態度をとろうとした。無論(嫌でも)協会やJリーグの決定を認めねばならないこともあった。

 W杯への準備では、協会との間にも調整が必要だったし、リーグとも日程を調整する必要があった。私は自分を代表の第一の擁護者だと思っていたし、協会も私にその役割を求めていると思った。協会は外国人の監督を起用したことによる要求のレベルの高さを初めて実感したのではないか。

 今日の協会には、多くの経験の蓄積がある。私やジーコ、(イビツァ・)オシム、(ヴァイッド・)ハリルホジッチらと仕事をしたが、アグレッシブな方法論で臨んだのは私が最初だっただろう。斬新なやり方だったから、選手だけでなく、協会や日本サッカー界全体も驚いたに違いない。

 だから、時に内部で軋轢が生じた。対立もあった。だが、協会は常に私を支えてくれた。(当時の)岡野(俊一郎)会長をはじめ、(当時技術委員長の)大仁(邦彌)さんや(同技術委員の)田嶋(幸三)さん、そして(当時強化推進本部副本部長の)木之本(興三)さん。彼らは常に私をサポートしてくれた。

 そんなふうにやってきたし、私はそれが当然だったと思っている。私は代表の利益のために戦い、協会は理解を示してくれた。対立と合意を繰り返しながら、私たちはともに成長した。私の日本での成功は、協会の成功であり、Jリーグの成功でもあった。簡単ではなかったが、お互いが協力して合意点を見出した結果だ」

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