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トルシエ監督の「奇策」の真相。山本昌邦が日韓W杯トルコ戦で三都主と西澤明訓を抜擢した理由を明かす (4ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Asada Masaki
  • photo by Getty Images

 どうにか決勝トーナメントには駒を進めた。表向き、日本代表は勢いに乗っているかにも見えた。

 だが、実際は心身ともに限界が近づいていた、のかもしれない。

 山本が続ける。

「(当時の日本代表は)ベスト16でどう戦うかよりも、そこへ行くためにどうグループリーグの3試合を戦うか(が優先)、でした。

 ベスト16へ行ったら、そこから先は別の戦い。その時にどのくらい余力があったのかと言えば......、どうしても気力は若干低下しますよね。それまでのように、牙をむいて獲物を狙う感じはなくなっていました。目標だったグループリーグを突破したことで、一定の達成感はあったんだと思います。

 極端に言えば、もう満足していたのかもしれないですね」

(文中敬称略/つづく)

山本昌邦(やまもと・まさくに)
1958年4月4日生まれ。静岡県出身。国士舘大学卒業後、JSLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)入り。DFとして奮闘した。29歳の若さで現役を引退。指導者の道に進んだ。とりわけ、協会のナショナルコーチングスタッフとして手腕を発揮。U-20代表のコーチ(1995年、1999年U-20W杯※当時ワールドユース)、監督(1997年U-20W杯)、五輪代表のコーチ(1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪)、監督(2004年アテネ五輪)、A代表のコーチ(2002年W杯)を歴任。すべての世界大会に出場という、輝かしい成績を残した。現在は、指導者、解説者として奔走。

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