「バットマン」と呼ばれた宮本恒靖。話題のフェイスガードの知られざる真実
日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
宮本恒靖インタビュー(3)
ベッカムが、ロナウドが、イルハンが、次々にフィーバーを巻き起こし、日に日に広がる熱狂の渦。あれほど日本が"サッカーに燃えた1カ月"は、あとにも先にもないだろう。
それほどに2002年ワールドカップ日韓大会は、文字どおり、日本中を熱くしていた。
「徐々にうねりが大きくなっていくような、そんなことを感じながらやってました」
そう語る黒マスクの"バットマン"こと、宮本恒靖もまた、その熱狂の中心にいたひとりであることは間違いない。
宮本恒靖のトレードマークとなっていた黒マスク。photo by Press Association/AFLOこの記事に関連する写真を見る 宮本の活躍とともに、すっかりトレードマークとして有名になった黒マスクだが、その正体はと言えば、開幕直前の練習試合で骨折した、鼻骨を守るためのフェイスガード。宮本の危機を救ったマスク製作は、電光石火の早業だった。
「本当にラッキーでしかないんですけど」
宮本が当時の出来事を振り返る。
「ケガをして宿舎に夕方帰って、その日の夜8時くらいには大阪から(マスクを作る)メーカーの方が来てくれて。それで型をとってもらい、一晩寝たら、次の日の朝にはもう出来上がっていた、という感じでした」
宮本が懐かしそうに続ける。
「当時、そういう技術があったから、自分は試合に間に合ったわけで、それがなかったら、もう出られませんっていうことになっていたかもしれないですからね。自分自身は大会に参加できなくなるっていう意識はまったくなかったですけど、でも、これを着けてプレーすることが(ルール上)認められない可能性もあったとは思いますし、幸運だったと思います」
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