「バットマン」と呼ばれた宮本恒靖。話題のフェイスガードの知られざる真実 (3ページ目)
もしも日本代表が決勝トーナメント1回戦でトルコに勝ち、ベスト8に進出していれば、宮本は晴れて黒マスクを脱ぎ、"素顔"でプレーする予定だったというが、結局、トルコに0-1で敗れ、その望みは叶えられることがなかった。
宮城スタジアムでの雨中の一戦を最後に、すべての役割を全うした黒マスクは現在、日本サッカーミュージアムの一角に展示されている。そして、もうひとつの白マスクは「記憶が間違っていなければ、黒く塗ってはいないので、白いままだったと思います。今はどこへ行ったのか......、もう覚えていないですね(笑)」とのことだ。
当時の日本代表はワールドカップ開催国にとっての使命ともいうべき、決勝トーナメント進出を目標に活動をスタートさせ、それを実際に完遂した。
しかし、今なお充実感より失望感が強く記憶に残るのは、グループリーグでの戦いがあまりに痛快だったがゆえ、さらにその先が期待されたからである。
「(決勝トーナメント1回戦で)トルコに勝って、次(の準々決勝で)セネガルか、スウェーデンに勝ってベスト4っていうところをみんな頭に描いていましたから。そこでの負けっていうのは、内容も含めて物足りなさが残りましたし、特に韓国がその先(ベスト4)まで勝ち進んだので......。当初の目標は達成したのかもしれないけれど、もっとやれたのではないか、という思いは当然ありましたね」
日本中を熱くした激闘から、もう20年が経過した。日本サッカー史に残る歴史的大会を振り返り、宮本は何を思うのだろうか。
「ピッチから見た光景、バスから見えた光景、当時の街中の熱狂とか......、あの時目にしたものは、新鮮な形でかなり印象に残っています。色あせている感じではないですね。
でもまあ、あれから20年かと思うと、『早いな』って」
(おわり)
この記事に関連する写真を見る宮本恒靖(みやもと・つねやす)
1977年2月7日生まれ。大阪府出身。現役時代はガンバ大阪の中心選手として長年活躍した。その他、オーストリアのザルツブルク、ヴィッセル神戸でもプレー。各世代別代表でも奮闘し、1993年U-17世界選手権、1997年ワールドユース、2000年シドニー五輪に出場。その後、A代表入りも果たし、2002年、2006年とワールドカップにも2度出場した。現役引退後は、解説者として奔走する一方で、FIFAマスターを取得。2015年にガンバのアカデミーコーチに就任。以降、ユース監督、U-23監督を経て、トップチームでも手腕を揮った。現在は日本サッカー協会の理事を務める。
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