長友佑都を初めて見てから15年。不死鳥のように何度も蘇る「有言実行男」は、またも逆境を跳ね返すか
長友佑都(FC東京)を初めて見たのも、国立競技場だった。
2007年6月6日、反町康治監督が率いた北京オリンピックを目指すU−22日本代表に長友は初めて招集され、U−22マレーシア代表とのアジア2次予選のピッチに立っていた。
FC東京の特別指定選手となっていたものの、当時まだ大学生だった長友は右ウイングバックとしてスタメン出場を果たすと、28分に先制ゴールを叩き込み、後半にもPKを奪取する活躍で3−1の勝利の立役者となった。
ブラジル戦では右SBでアピールに成功した長友佑都この記事に関連する写真を見る すでに最終予選進出を決めていた日本にとって、この試合は最終予選と本大会を見据えた新たな選手の発掘に主眼が置かれていた。
「オリンピックに出るためにアピールしようという気持ちで臨みました」
その言葉どおりに長友はアピールに成功し、翌年のオリンピックメンバーに選出されている。
以降の長友の成功譚は、述べるまでもないだろう。3度のワールドカップ出場を果たし、欧州のビッグクラブでレギュラーの座も掴んだ。まだ初々しかった大学生は、日本サッカー史に名を残す選手にまで飛躍を遂げたのだ。
あれから15年の月日が流れた。奇しくも同じ6月6日、生まれ変わった国立競技場に35歳となった長友の姿があった。
今なお第一線で活躍し続けているのは奇跡的と言えるが、あるいは長友は15年前と同じ気持ちでピッチに立っていたのかもしれない。長年明け渡すことのなかった左SBのレギュラーの座を、失いつつあるからだ。
カタールワールドカップのアジア最終予選で、長友の評価は下落した。ホームのオーストラリア戦で失点につながるプレーに関与し、以降はスタメンとしてピッチに立ちながら、中山雄太(ズヴォレ)との途中交代が定番となった。
「SBに交代枠を使うのはもったいない」
「左サイドの攻撃が機能していない」
所属するFC東京で左SBのポジションを明け渡し、右サイドに移ったことも苦境に拍車をかけている。さらに中山に加え、パラグアイ戦では代表デビューとなった伊藤洋輝(シュツットガルト)の強烈な突き上げもあった。
「日本代表の左SBは長友でいいのか?」
不要論さえ叫ばれる状況に、長友は危機感を抱いているはずだ。
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