ファルカンが語る日本代表監督時代の思い出。「こんな代表は世界のどこにもない」 (5ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

電車は私にとって最高の学校だった

 ピッチ外での日本の生活も、私の人生の最もすばらしい思い出のひとつだった。私は協会が借りてくれた都内の戸建ての家に住んでいて、毎日自転車で駅まで行き、そこから地下鉄に乗って自分のオフィスまで通っていた。自転車に乗って駅までがきっかり12分だったのを今でも覚えている。外を歩いていても大騒ぎされることもなく、プロになって以来、これほど落ち着いて生活できたのは初めてだった。もうひとつ忘れられないのが、駅前に自転車を、鍵をかけずに置いていっても、夕方、ちゃんとそこに自転車があったことだ。私にとっては奇跡のようなことだった。

 JFAは私に運転手つきの車を用意してくれ、どこでも好きなところに行っていいと言ってくれた。飛行機も使っていいと言ってくれた。でも、私は電車で移動するのが好きだった。私は日本のどこに行くのにも電車を使った。車内でじっくり資料を読み、日本のサッカーを学び、時には人々と日本のサッカーの話をし、電車は私にとって最高の学校だった。

 いろいろな土地を回ったが、一番印象が強かったのはアジア大会で訪れた広島だった。原爆資料館を訪れた時には本当にショックを受けた。マスコミから感想を聞かれたが、私は何も答えられなかった。多くの、本当に多くの人が苦しみながら亡くなっていった。私は資料館で感じたことを試合前の選手たちに話した。こんな悲劇に遭いながらも、日本は果敢に復活を遂げた。そんな日本人のとんでもない強さを、彼らもまた持っていることを感じてほしかったからだ。

 知れば知るほど、私は日本という国が好きになっていった。
(つづく)

パウロ・ロベルト・ファルカン
1953年10月16日生まれ。現役時代はインテルナシオナル、ローマ、サンパウロでプレー。ブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと「黄金のカルテット」を形成した。現役引退後の1990年、ブラジル代表監督に就任。1994年、ハンス・オフトの後任として日本代表監督に就任した。

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