日本代表選手の意識は2000年アジアカップ優勝後に大きく変わった

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Asada Masaki

「史上最強」と称された日本代表
――第6回

2000年アジアカップ。日本は圧倒的な強さを見せて2度目のアジア制覇を遂げた。当時、その代表チームは「史上最強」と称された。20年の時を経て今、その強さの秘密に迫る――。

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 最も厳しかった試合――。2000年アジアカップを振り返り、誰もがそう語るのが、決勝のサウジアラビア戦である。

 すでにサウジとは、グループリーグ初戦で一度対戦していた。結果は4-1。前回大会王者を一蹴する、圧勝だった。

 しかしながら、苦杯をなめたサウジにしてみれば、このまま引き下がるわけにはいかなかった。当時の日本代表コーチ、山本昌邦が語る。

「サウジは伝統と歴史がある国だから、このまま黙っていられないって、すぐに監督をクビにしましたからね。監督を代えて修正してきたので、もう初戦とは違うチームになっていました」

 新しく就任した監督。目の色が変わった選手たち。事前にそうした情報が入っていたとはいえ、実際にピッチに立った日本の選手は、少なからず面食らっていた。

「(初戦を経て)日本は研究され、対策されているな」

 名波浩はそんなことを感じながら、ひたすら守備に追われていたことばかりが記憶に残っている。

「後半なんか、ずっと押されていましたね。トップ下の(テクニックがある)アルテミヤトが中央にいても、(日本から見て)左サイドの攻撃が嫌だったので、ボランチはそっちに引っ張られてしまう。それで、決定的なピンチを作られ始めた。(相手の)FWに深みを作られてDFラインは上げられないから、オレたちボランチも後ろにとどまるしかない。(左ウイングバックの中村)俊輔にも『今日はポジションを変えている場合じゃねぇぞ』って、もうずっと守っている感じでしたね」

 決勝の舞台で今大会初めて名波とコンビを組み、ダブルボランチを務めたのは、それまで右ウイングバックに入っていた明神智和だった。

 紅白戦などゲーム形式の練習を好まないフィリップ・トルシエは、試合前日に翌日の先発メンバーを想定した練習をすることがない。となると、その日の先発メンバーは試合開始のおよそ3時間前、ホテルを出発する直前のミーティングで伝えられるまで、当の選手にすら知らされない。

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