稲本潤一が明かす、ドイツW杯と
南アフリカW杯は何が違ったのか (5ページ目)
南アフリカW杯が開催された2010年シーズンから日本に復帰し、フランスのスタッド・レンヌから川崎フロンターレへ完全移籍した時、稲本は30歳だった。9年半ぶりに見た日本の景色はガラッと変わっていた。
「実際、自分はもう若くはなかったけど、日本に戻ってきたら、いきなりすごい先輩になっていた(苦笑)。自らの立ち位置も変わって、自らの立ち居振る舞いもいろいろと考えるようになった。
ゴンさん(中山雅史)とかを見て学んだことだけど、年上の人が元気に率先してやっていくのが、いいチームだと思うんです。だから、若い選手よりも、より練習しようと思った。自分がやっていないのに、人に何かを言うのはおかしな話やし、説得力がなくなるんでね。それで、『元気にやったろう』って。ただ、運動量とかでは(若い選手に)負けているんで、(若い選手相手に)どう勝負していくか、というのも考えてプレーするようになった」
稲本は、川崎、そしてコンサドーレ札幌で「チームのために」、そして「若手の見本となる」姿勢でプレーしてきた。それは、単に年齢を重ね、経験を積んできたからだけではない。
今もなお、2006年の"重い十字架"を背負っているからだ。
「自分の中に、2006年ドイツW杯の時の言動が『ダメやった』というのがずっとあるんです。ほんと、今振り返ると『ダサいな』って思う。でも、当時は抑え切れなかった。
そういうことは、指導者を目指すうえではすごくいい経験になったし、ありがたい経験やけど、それをW杯という舞台でしてしまった。それが、今でも重く自分にのしかかっています」
あの時、こうしていれば......と思うことは、人生の中ではよくあること。しかしそれが、稲本の場合、サッカー選手にとって最も大切な舞台であるW杯でのことだった。
その後悔を埋め合わせようと、以降は真摯にサッカーに取り組み、南アフリカW杯では日本のベスト16進出に尽力するなど、日本サッカー界に貢献してきた。そして、40歳となった今も現役として、SC相模原でプレーしている。
その足跡は、若かった頃の失敗を補って余りあるほど眩しいものだ。
(おわり)
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