【検証】消えたリオ五輪。なでしこに何が起きていたのか? (2ページ目)

  • 早草紀子●取材・文・写真 text&photo by Hayakusa Noriko

 短期決戦が多く、同世代のみで争われる世代別代表の世界では、有効的であったそれも、フル代表となれば話は変わってくる。ドイツW杯ではまだ日本のサッカーが認知されておらず、大会中になでしこたちのスタイルが固まっていったために、対戦国が対応しきれなかったことも追い風になった。掴みかけたスタイルを定着、発展させたのがロンドン五輪であったが、世界一になった翌年開催ということで、勢いを保つことができた。

 問題はロンドン五輪以降だ。W杯と五輪の2大会で、ファイナリストとなった日本はすでに諸外国から研究される存在に変わっていた。道は2つあった。指揮官を変え、全く異なるサッカーを選ぶ。もしくは、長期政権の弊害を含めて同じ指揮官で現状のサッカーを深めていく。協会が選んだのは後者だった。

 そこからは世代交代も含め、あらゆる選手が招集され、そのほとんどを新戦力発掘に使ったといっても過言ではない。世間では"変わり映えのしないメンバー"、"なぜ世代交代しなかったのか"と言われているようだが、そうではない。佐々木監督は重大な大会があるなしに関わらず、寛大なまでに若手にチャンスを与えていた。むしろそれが仇になった。

 世界大会ではない国際トーナメントは若手発掘の場と化した。本チームの底上げではなく、若手の底上げを優先した。そこまでリスクを冒しても若手が伸び悩む誤算が生じ、佐々木監督は、あきらめきれず最後まで"選考"を引きずり続けるようになる。カナダW杯では、最後までメンバーを固定することなく臨んだことで、選手間の戸惑いは計り知れないものになっていた。

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