工藤壮人が明かした「W杯メンバー発表という重圧」 (4ページ目)
「マサ(工藤)はユースからプロに上がるときから、他のFWと天秤にかけられている、というぎりぎりの状態でした。私は彼がサッカーに打ち込んでいるのを知っていたから、“絶対負けるはずない”と思っていましたけど。高校3年の8月(クラブユース決勝の前日)に、『プロの昇格が決まったよ』という知らせを受けたときは、本当に嬉しかったです。
それからも、順調というわけではなかったですね。ユースから一緒に上がった同期の選手がスタメンに使われていく中、彼だけ取り残されてしまって。人一倍頑張っているから、悔しいだろうなと心配していました。でもその反面、私は“マサなら大丈夫”とも思っていました!」
彼女は口元を引き締め、背筋を凛と伸ばした。
工藤はユース年代で日の丸を背負っているが、バックアップの扱いが多かった。2010年のアジア大会は優勝を経験するも、数分しかピッチに立っていない。2012年のロンドン五輪の選考からも漏れた。苦い思いをするたび、レイソルでゴールを決め、存在を証明してきたのだ。
「高校生のときに付き合っている頃から、マサは私の実家に遊びに来ていました。両親は息子ができたようで楽しかったようです。ウチは2人とも娘なので。父はユースの頃から、マサの試合には必ず行っていました。プロに入ってからは日立台の試合はもちろん、車で行けるところはアウエーゲームも通っています。
私はちっちゃい頃、『お父さんのお嫁さんになる』と言うような娘だったそうです。マサは父と似ているというか。先日、父が少し酔って、マサのことを『努力の天才』ってぽろっとこぼしたのは、なんか感動しました。
私が大学を出たばかりで結婚するのは、親としても心配があったでしょう。けど、マサの真面目なところを分かってくれ、一緒になることも許してくれました。なにより私自身、“この人とだったら、苦しいときも幸せでいられる”と確信したんです。とっても真っ直ぐで、自分を持っている人だなと」
彼女はそこで逡巡してから言葉を継いだ。
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