【日本代表】齋藤学が語る五輪、そしてフル代表 (3ページ目)
「マリノスから出るのは一つの賭けでした」
齋藤はそう告白する。10年シーズン終了後、彼はJ2愛媛FCへの期限付き移籍を志願している。
「試合に出る必要を強く感じていたし、そのために愛媛を選んだんですが、もし愛媛で出られなかったりしたら、帰るところはなくなりますからね。マリノスでアウトになるのと、愛媛でアウトになるのは全然違います。自分自身でもリスクは感じましたし、親はすごく心配していました。でも、そのままではずるずる行きそうだったし、まずは自分から積極的に動く必要を感じました。
他からも誘いはあったんですが、愛媛の強化部長の『ユースのときから君のことを注目してきた』という言葉は大きかったですね。『前で勝負して欲しい。点が取れる選手だから』と言われ、覚悟を決めました。ただ、マリノスではナビスコカップでの1得点だけだったんで、『本当に僕で大丈夫ですか?』と確認した覚えがあります」
愛媛の選手としてJリーグ初得点を記録したときは、訳も分からず敵チームのフラッグが揺られる方向に走っていた。気持ちの高揚をどうにも抑えきれなかった。時間が動き出した気がした。
2011年5月、わずか数ヵ月前まで岐路に立っていた齋藤の名前が全国紙で踊っている。当時、湘南ベルマーレを率いていた反町康治監督の一言が契機だった。
「今日は“愛媛のメッシ”にやられた」
北京五輪で日本を率いた指揮官がリオネル・メッシに準(なずら)えたことにより、マスコミは貪るようにそのフレーズに食らいついた。古くは「静岡のマラドーナ」のように、たとえ地方限定であろうとも、世界最高の選手との比較に人々の心はどうしようもなく動く。“誇張表現。どうせダメだろう”という冷やかしと諦念の裏に、“もしかしたら怪物かも”との希望に胸を高鳴らせるのだ。
齋藤は身長169cm、体重64kgと小兵だが、大男たちをものともしない。
最大の魅力は、ドリブルから切れ込んでのシュートにあるだろう。派手なフェイントを仕掛けるわけではない。ステップワークやボールを触るテンポだけで敵の逆を取る。相手の力を利用した対術にも似て、そこに彼自身の速さが加わって勢いは倍加。守備者は飛び込んだ矢先、軸足にボールを運ばれてしまう。そしてコースにボールを流し込むシュートも心憎い。
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